「男性ブランコ」M-1 2022
男性ブランコの音符運びって、
たしかに既視感はあるのだけど、
インポッシブルの「でっかい昆虫」は生き物だし、
ラーメンズの「ロールケーキ」は物質へのマイム。
音符という
「記号」の具象化をマイムで表現してる、
ってポイントに斬新さがあると思います。
もちろん探したらそういうネタをしてる芸人さんはいるかもしれないのですが(たぶん居るんだと思う)
だけど、それを2人組で、漫才という形態で、世界観自体にはあんまりツッコまない(これも重要)で、ああいう形に仕上げた事に彫刻的な美しさがある。
発想の凄さよりも造形のなめらかさが突出していると思います。
浦井と平井と曖昧感覚
発想としては、田中達也さんのミニチュア写真を思い出しました。
こういう記号と物質への曖昧感覚から生まれてる面白さだと思います。
ただ、田中達也さんは「物質の記号化」の方に比重があるんじゃないかなと感じます(だから写真という表現になってる。2.5次元に閉じ込めてる。)
それと比較すると、男性ブランコは「記号の物質化」で世界を構築してて、しかも漫才だから演技の曖昧領域への誘導も成功してると思います。参加型空間芸術。
物質ネタの三態変化
なので、男性ブランコって
(+影響を公言しているラーメンズも)
「演劇的」なんだけど
「演技的」では無いなと感じます。
しいて言えば「演劇のモノマネ的」。
「演技性」はむしろ薄くて、
曖昧な共同幻想を
「動き」や「イントネーション」
とかで伝えてる感が強め。
記号の具象化は、出発地点がニュアンス芸。
だから、面白さの導入としては
(ただ、あれも実在する諸島の形状を地図表記の記号にし、それを「持つとしたら」と具象化し、なおかつフリップ芸の中で表現しているから、出力工程が何段階も経てる。ややこしいんだけど、だからこそ大喜利的な破壊力があるんだと思う)
だけど、その後の笑いのポイントが
「殺傷」大喜利になっていくんですね。
記号の具象化をした先が、具象の強化になってゆく。
それが
インポッシブルっぽい地点を少し通過しながら、最終的にはその領域が現実と地続きの漫才という会話の形態の一種に緩やかに戻ってゆく。
このバランスが絶妙だと思います。
これは、抽象→記号→具象→形式という流れ。
すごく感覚的な言い方になってしまうのですが、
印象として「気持ち良い凹凸」がずっとある感じ。
ニュアンスとリアリティを行ったり来たりして丁寧に揉みほぐされるような不思議な感触。
そういう意味でも、男性ブランコは「音楽的」なネタだなと思いました。
物質化した音符の運搬先
そう考えると、
その逆の行程は、シティボーイズの
「ピアノの粉末」
とかになるんじゃないかな。
コントで実際に物質を舞台上に置いて、
何かを想像させてから答え合わせで
「無い物」を見せてる。
形式→具象→記号→抽象、
という男性ブランコの音符運びとちょうど真逆の辿りかた。
あとシティボーイズの方はコントなので、関係性によって「風景」も見せてるという点で違いもありますね。
舞台上に、きたろうさんと、いとうせいこうさんと、ピアノの粉末だけしかないのに、部屋の間取りが見える。
男性ブランコは、浦井さんと平井さんと観客の居る空間に、ないハズの「音符」が見える。
空間と機転になる物質の割合が逆。
それが、コントと漫才の形式の違いによって浮き彫られてるのかな。
男性ブランコのネタは、
実際にあの場に「音符の置物」を用いて演じてたら、面白さの質感が変わると思います。
もちろん、シティボーイズも、
粉末が無かったら想像させる余白が広くなり過ぎると思います。
「真空ジェシカ」M-1 2022
真空ジェシカってもう
という感じがあります。
「何で来たか?→パトカー(韓国の受験生)」
っていうボケをどの段階に配置したら面白いか?
→序盤の4ボケ目(派遣のニューウェーブの後)
みたいな、
構成そのものでボケちゃってる領域。
ラヴィット!の教訓
話が少し遡るのですが、
真空ジェシカが「ラヴィット!」に出た時
炎上とは言わないまでも、ブーイングのような感じの現象が起きていました。
プレイヤーの支持層とコンテンツの支持層がバッティングした瞬間だったのでは、と思います。
真空ジェシカってこの動画のコメント欄の盛り上がりを見ると、ここまでの濃度のものですら観客含めて、面白いものとして捉える事が容易く出来ちゃう。
そういった支持層の笑いにラヴィットをヒルナンデス的な情報番組だと思って観てる層が触れたら心底ビビると思います。
いろんな理由があるとは思うのですが、旧来型のメディアや、長らくコアな支持層によってガラパゴス化していたジャンルなどが近年、情報化社会の過渡期に差し掛かっている時流の中で、不意打ち的に交錯しやすくなっているように感じてて、それらが互いの文脈を把握が薄いままに衝突し、過剰反応が起きやすくなっているタイミングだったのではないでしょうか。
ある方向性の濃度を高めていけばいく程それはドメスティックなものにならざるを得ない。
というか、だから面白いわけで。
ただその支持は加熱する程、逆にその場所がいつまでもクローズドなわけではなくなる事を意味し、経年変化も求められる速度が上がってゆきます。
この話はガキ使の黒塗りの海外の炎上とかにも繋がっていると思います。
たぶん「二進法」等のワードが難しかったと言うより、「一日市町」から「5秒秘書」とかまでスピーディに発展してゆく大喜利のルールみたいなもののに世代間格差が生じていた気がします。
それが掴みにくいから
「単語とかコンセプトの難解さ」と捉えてしまう。
俺じゃなきゃ俺じゃなきゃ見逃しちゃうね見逃しちゃうね
つまりめちゃくちゃ単純に言えば、
「あえて」の面白さだと思うのです。
ただややこしいのはその「あえて」が伝わらない層をほっといても今までは交わらなかったけど、それが今は届いた上で伝わらない。
という現象に本人やその周囲がどれだけ「自覚」してるかも面白さに含まれつつあるという事なのでは…?という感じ。
そして、それらを踏まえて今回2022年のネタは、周囲も真空ジェシカという漫才師のルール把握をしていたし、真空ジェシカ側もそれを踏まえた上でコントロールしていた感があると感じました。
同時に、それによって
という驚異性も感じました。
「俺じゃなきゃ見逃しちゃうね」の入れ込み方とか。
このワードの面白さ自体が、この言葉の意味とダブルミーニング的にどちらの層にも届かせてる、という凄みがさりげなくあったと思います。
シルバー審査員センサー
あと、ガクさんのツッコミ方も実はうっすら内輪ボケの面白さが世代的にあると感じてて…
コンビバランスとしてツッコミ台詞を太字にしてゆくというトレンドとも微妙にちょっと違う前提共有、な気がします。
個人的にはですが、あの長めの説明台詞でフガフガしながらツッコむのって「ギャグマンガ日和」の吹き出しをすごく思い出しちゃう。
憶測なんだけど、ある時期からギャグ漫画って文章増えたんだと思うんです。たぶんマサルさん以降。
勝手な印象論ですが、漫画表現でのギャグのパターンがある程度出尽くして枯渇したから、構造的なボケ方(というかギャグをボケと定義できちゃう段階でかなり概念的に言語化されちゃってる)に進化せざるを得なくて、それによってツッコミの解説比重が増えたのではと。
ガクさんはその文脈上にいると思う。
「戒名の曲→かいみょん」に対して「死んだーソングライターの…」って後乗せワードは、松尾芭蕉が弟子の曽良くんに暴力を受けリアクション後にコマの端っこで添えるように足されてる一言っぽい。
そしてその面白さは漫画表現で出来るギリギリの言語的な笑いの追及だと思います。絵と字で間を発生させてる。
真空ジェシカは話術表現なので、余計に言語的な洗練が乗ってきてる。言語領域は置き換えが本質なので、より内輪的。
もうそれって漫才とはちょっと別の芸術みある。ゲームオタクが、プレイを極め過ぎてどれだけ早くクリア出来るか競い合いRTAというゲーム内ゲームを生み出しちゃってるみたいな状態だと思います。
「ヨネダ2000」M-1 2022
すごく感覚的になんだけど、ヨネダ2000の面白さはそんなに音楽的な部分に比重があるわけではないと感じます。
女版と形容されたランジャタイとそこまで似てるわけでもないと個人的に思います。
そして、ランジャタイの方がもっと音楽的に複雑だと感じる。
ヨネダ2000は映像的。
高熱の時に見る夢モノマネ
ヨネダ2000の面白さは、ボーボボの亀ラップを見た時と近いと思います。
展開のみを積み上げてゆく風邪引いた時に見る夢漫才。
起承転結ならぬ起転転転で全体構成してゆく額縁芸。
その展開パターンは実は前提共有的な部分があって、そういう意味では真空ジェシカと似たような感度の世代格差があると思う。
これは何をしているかって言うと
「ギャグ漫画のモノマネ」をしてるんだと思うんですね。
雑なラップ描写(しかも元は誌面上で)から始まって、それを解体し続けて(本来なら1コマで終わらせれるボケを延々絵変わりせず続けるという勢い系スカシ)極限まで溶かして原液にしてそのノリ自体をギャグ化してる。
ヨネダ2000も
「漫才のモノマネ」をしてるんだと思うんです。
唐突なテーマ設定、ツッコミ側も破綻して一緒にノってく、中盤以降に歌う(ダパンプでフっといてラップ部分を違う人がやるのも球種としてはあるあるだと思います)解体し続けて脱構築もせず解体そのもののグルーヴを漫才の様式に頭とお尻だけギリ繋いでる。
あとたぶん、
ボーボボは漫画表現だから絵変わりをせず掛け合いの展開をして行ってて(普段のボーボボは場面やキャラが急に展開したりする)、
ヨネダ2000は漫才という喋りの形式が限定されてる舞台表現だから、横に展開してゆく(人物が増えて風景を想起させてる)というスカシ方になってるんだと思います。
で、それはやっぱりランジャタイとは違う積み上げ方だと思います。
大きく言えば両者ブッ飛んでる系だと言えるけど、ランジャタイの飛び方は漫画で言えば、ピューと吹くジャガーの無我野喬至オチみたいな感じ。
丁寧なディテールによってカオスへ突入させてく「いつの間に沼に…」的な造りになってるいるのではないでしょうか。
ヨネダ2000が似てるブッ飛んでる系は、どちらかと言えばトムブラウンとかだと感じます。
トムブラウンも映像的と言いますか、2人ともアイコニックになってゆく事を先行させてて、そこにストーリーを生じさせています。
「狂人と化物」が漫才してるというモノマネから出ない。
そこはヨネダ2000よりも基本に誠実で、スカシよりもベタのやりきりで展開してゆく。
漫画で言えば、でんじゃらすじーさん。
立川版審査員
この「映像的」かどうか、って所が重要で志らくさんはそこら辺に反応して「女版ランジャタイ」って形容してると思うんですね。
そこにはある種の簡素化があって
「女」も「ランジャタイ」も、
記号的に捉えている。
接合の面白さ。それはモノマネへの理解。
「性別」そのものは身体的差異でしかないのだけど、「男女」という認識をした段階でそれは記号化の側面を持ち始めるんだと思います。
人間の社会生活はその記号化のモノマネをしてゆく事で全体像を構成してゆく(あくまでモノマネなので完全に"それ"になる必要はなく、アイコンになるに留まる。どう反応するかも個別です。)
単純に言い過ぎぐらい単純に言えば、
男は「男」のモノマネをしてるし、
女は「女」のモノマネをしているに過ぎない。
そしてその性別をフックにした「男女」という認識は身体的差異そのものの事というよりも、その周辺文化の概念的領域の事を指しているので、それ自体が地域や時代によって まだら模様。
例えば、細かい見方しちゃうと
「絶対に~↑成功させようねぇ↓」とかは
微量に、中学生女子吹奏楽部あるある的なモノマネが成分としては入ってて、それは
「女性がやる事で意味が抽出されてる」とも言えます。
そういう意味ではヨネダ2000は「女性の武器」を使ってる部分が構造的には確認できると思います。
そういった、ひとボケに対する性別的世代的な前提共有を省いていったとしても、おそらく志らくさんの見ているポイント(ブッ飛んでる系、つまりは形式の破壊という形式)としては、むしろ表層にこそ言及する意味があるのだと。
あと「女の武器」という言い方自体が、あの年代の「男の防御」モノマネ。
ヨネダ2000は
「漫才×リズムネタ」のモノマネをしてるし
「落語家×審査員」のモノマネをしてるんだと思う。
どちらもそういう額縁芸をしている、
という根本的な認識を周囲は忘れてしまいがちで、そしてその地点にこそ面白さがあるのではないでしょうか。
ハレの日ハードコア
あと、個人的な感覚で言語化が難しいのですが…
話が最初に戻ると、ランジャタイの方がヨネダ2000より「音楽的」だと感じてるんです。
どっちも面白くて好きですし、もちろんヨネダ2000のネタは音楽性がかなり高いんだと思うんですが…
なんて言うか、自分はたぶんテクノそのものに音楽性の薄さを感じてる部分があるんだと思う。
全く知識が無いまま言葉にしてみようと思うのですが、いわゆる"揺らぎ"みたいなものを感じるか。
漫才で言うところの"絶妙な間"みたいなもの。
で、そこからさらに演技とか言語みたいなものを排していってもグルーヴを生めるのか。"揺らぎ"だけになっても成立するのか。
そういう感覚で言えば、やっぱりヨネダ2000やトムブラウンには、ある種の「形式」を感じます。
野性爆弾もハリウッドザコシショウも片岡鶴太郎もエンタツアチャコも破壊そのものの目的化が感触としてあって「お約束」の再定義みたいな運動をしてるんだと思う。
それは革新的で熱狂的で面白い。
でもラリってはいない。
「バグってはいるけど、ラリってはいない」んだと思う。
誤解を恐れず言えば、ランジャタイはラリってる。
繰り返しそのものを目的化していないハズなのにマンネリズムな面白さが充満してるし、あとなによりその上で発露は衝動的かつ逸脱的。
原始的なリズムに根差した逆行してるコミュニケーション。
音楽そのもの。
だと、自分は感じているのかもしれません。
ヨネダ2000のテクノ感は、超新塾とかに近い。
大川興行の花火のやつとかも。
「オズワルド」M-1 2022
オズワルドは「漫才の会話」という"設定"から出ない。
その中で行われる"論理の飛躍"によって、非現実世界みたいな領域を構築してると思います。
ロングコートダディは「漫才コント」を行う漫才という"設定"からは出ない。
コント内での"展開の飛躍"によって、「漫才の会話」という領域からははみ出ながら非現実世界を包括してると思います。
たぶんもっと複雑なんだろうけど、あえて単純に言おうとしてみると、
オズワルドは
「漫才というコント」してて
「漫才の中でコント」してる。
っていう感じなんだと思います。
漫才という会話コント
オズワルドの漫才って、会話劇比重の高いコントでもあるなと感じていまして、バナナマンの「pumpkin」というネタがあるのですが、こういう言葉の掛け合いのみでほとんど動かず、机上の空論的に、"結果としての状況のおかしさ"的な地点を目指してる、という設計な気がします。
で、こっからちょっと思考実験的な飛躍をしてみるんですが、M-1という番組自体が「漫才大会のコント」をずっとしている、ようにも捉えられる…
それを意識した場合、上記のような「コントとの境界線上的な演じ方をしている漫才師」って「漫才大会のコント」の登場人物として凄く適してると思うんです。
M-1という大会コント
オズワルドもロングコートダディも、ちょうど良い問題提起感があり続けてると言いますか、例えば2010年のジャルジャルの「コンビニ」ほどメタ視点込みのカオス構築や、今年のヨネダ2000ほどの解体芸術テロ行為みたいなとこまでは行ってない。
だからこそ一発が大きくなり過ぎない。コントが持続してる。
「M-1という漫才大会のコント」を継続させるために、その"設定"から出てない。
なんか上記したジャルジャルやヨネダ2000はやっぱり「定義されてる漫才(の概念)」からは出ちゃってる感じがします。
かと言って、さや香とか銀シャリとかは「漫才」過ぎて「漫才大会のコント」には乗ってる感が薄め。
これ誤解されがちかもしれませんが、決して採点基準の話ではありません。
コント的な漫才が優勝出来ない説を唱えているわけでも、漫才の定義を解体している組が決勝に相応しくないと言ってるわけでもありません。
「M-1というコント」だと捉えた場合に
「漫才コント師」的な芸風って、見やすい。
という話。
漫才コントという明晰夢
M-1という番組は
「定義されてるであろう漫才」という"設定"から出ずに繰り広げられる会話劇を
「漫才大会に出てそうな漫才師」という"設定"からはみ出ながら大会出場者を一人一人演じてる。
オズワルドからロングコートダディまでの領域内に全組納められると思います。
コントとして見たら。
「カベポスター」M-1 2022
カベポスターも真空ジェシカも、
ボケの羅列で全体構成もしている漫才
だと思うのですが、
前者は
「設定の中で回答を繋いで物語化」
しているのに対して、
後者は
「聞き間違い大喜利から導入し、オチの展開でちゃぶ台返ししたり、と物語そのものを大喜利化」
していると思いました。
大喜利と物語の関係性
カベポスター
「大喜利の物語化」
「物語の大喜利化」
そして、その2組が連続してる事自体が物語的。
「羅列ボケ系漫才」の羅列で
「ネタ順に左右されるM-1という舞台」の物語
になってる。
カベポスターの、
設定からは出ない丁寧な積み上げによって造り上げられた世界観を
真空ジェシカが、
同じ手法だけど真逆の積み上げによって物語化の価値をブッ壊しちゃってる。
ネタ順で批評性が発生し意味解体のダイナミズムが産まれていたと感じます。
オオギリーガーとしての実験器具
ただ、その力学の衝撃が大きく感じる程、カベポスターの積み上げのレベルが高かったという事も証明されていると感じます。
カベポスターは、回答自体はベーシックだと個人的には感じるのですが、それを並べて物語化し、その物語のオチの部分で次の展開の出題に繋げてそれを繰り返す事で、耐久性のあるシステムを作っているので、大喜利が好きすぎて開発者側に回ってしまってる縛りプレイ変態みがある思います。
「大喜利漫才」というより
「大喜利を漫才に施してる」という感触。
永見さんのボケ方ってあんまり掛け合い的じゃなくて、むしろフリ部分の方が説明的です。
一人で出題して一人で回答してる。
それに対して浜田さんはしっかり漫才のツッコミをしています。なんというか、大喜利である事をバレないようにしてるとも感じ取れます。
漫才のフリをしている。
漫才のフリが上手い大喜利の羅列なのかも。
ビッグバン
「大喜利の回答で世界を作ってる」けど
カベポスターは
「大喜利の問題で世界を作ってる」。
創造主側の立場。
そういう意味でもトップバッターに相応しかったのかもしれません。
「キュウ」M-1 2022
キュウの漫才って、エロいんだと思う。
言葉遊びや顔芸はそれを引き立てる道具なだけで、漫才にしては長いあの間合いが、焦らしと擽りになってて掻き立てる想像を一瞬で壊してくれる快楽がある。
M-1でやってたネタの「上手くないでしょう」の時の清水さんの指の動きとか堪らん。
ぴろさんの、待ち顔も。
言葉遊び - 言葉 = 遊び
昔の漫才と比較してみるとその変態性をより深く味わえます。2人とも今より言葉数が多くて、清水さんは回し気味ツッコミ、ぴろさんは説明的なボケ。
キュウの進化って、言葉遊びの向上って言うよりむしろ言語解体。
2人のバランスは変わってなくて、そこから言語性が引かれてる。
こういう感じの面白さ。
言語を完全に無くすわけじゃなくて、それをフックにある程度残したまま音楽に近付けてゆく行為。
漫才という旋律を保ったまま行うハナモゲラ語。
そして、それを共同作業でやってて、なおかつ人前で確信犯的に披露するから露出狂性も発生してると思う。
変態とは何か?
じゃ「変態性」ってそもそもなんなんだ?という事ですが、心理学者フロイトはエロスと対比してタナトスを上げ表裏一体を説いてるわけですね。
生は死の縁に近付くと燃え上がる。それすなわち抑圧。
キュウの漫才は抑圧によって面白くなってる。
漫才という言語遊戯を言語の抑圧によって燃え上がらせてる。
ヨルタモリ5/17:近藤(タモリ)「僕は変態ですよ。人間 誰だって変態ですよ。俺は変態の第一歩は恋愛だと思ってますからね」「生殖行為っつうのは、第一義は子孫を残す事でしょ。それに精神的なものが入ってくる事自体が変態なの。恋愛っていうのは生殖行為に、精神性が入ってくるわけでしょ」
— bambi (@bambi_012) 2015年5月17日
タモリさんのこの話を聞いたことある人も少なくないと思うのですが「変態の第一歩は恋愛」これって生殖という本来の目的から外れて興奮する事を指摘してて、フロイトの言う「文明は『エロス≒タナトス』の抑圧」という説にも通ずる。
変態性ってのはズレの事だと思います。
漫才性管理
言ってしまえばキュウの漫才って「コント」なのですが、その前提ボケを描くにしてもディテールが丁寧で、ちゃんと漫才の形式から始まって、言語がズレてゆき「だんだん漫才じゃなくなってゆく」。
しかも何本かネタを見ると、それが目的になってる。興奮するポイントが本来の目的から遠くなってゆく。
これって、めちゃくちゃエロい事だと思う。すっごく官能的。自分が変態である事を自覚してる。
我々はもう、キュウの漫才を知ってしまった時から普通の漫才では物足りなくなってしまってる。もっと私を楽しませましょう~!ってなってる。
それって本来の漫才の目的と
「全然違うもの」だと思います。
「ダイヤモンド」M-1 2022
ダイヤモンドがM-1でやってた「レトロニム」漫才。
言葉遊び的な面白さを感知してる人と、「~もね!」「~もねって辞めてよ!」で感知してる人とで、綺麗に別れてる気がします。
~もね先行型
自分はどちらかと言えば後者で感知してるタイプで、野澤さんの もちゃっ とした喋りで語尾強めに発してく事の理不尽な感じと、小野さんのなぜか乙女っぽい拒否反応のリアクションが、ワケわからんくて面白かったです。
なので正直、ワードを脳内変換してツッコミで納得するの初見じゃ追い付かなかった。
でも、それは完璧に理解出来なかったわけでもなく、なんというか 残骸的にその面白さが瞬間瞬間でちょっとだけ「わかる」という感じ。
割合としては「~もね!」のイントネーションが75%で、「不自然ローソン」とかの言葉遊び部分が25%ぐらい。とにかく「~もね!」が面白かった。「~もね!」漫才。
「もね」と「経て」
あと、ごっつのこのコントを思い出しました。これも「~経てェ」の面白さが75%くらいだと感じます。
コントだし、言語解体とルール構築自体がかなり密接になってるという違いはあるけど。
言い方で全体を包んでる面白さと言いますか、たぶんだけど意味を考えて作ってない気がするんです。
イントネーションだけで引っ張って、息継ぎとして言葉遊びを入れ込んでるって感じ。ただその感知に関しては右左脳的な個人差によってバラつきがあって、どうハマるかがズレるんじゃないかなと思います。
この言い方芸の構築方法で、言語解体を突き詰めてくとキュウみたいになるし、イントネーションによるグルーヴの追及を絵作り込みで行ってくとヨネダ2000みたいになってくんじゃないでしょうか。
そういう点ではダイヤモンドは、ごっつの「経て」的なバランスのまま今の漫才文脈にちゃんと乗せてると感じます。
お笑いが流行ったから
そして別の観点だと、あの結果は、観衆の意識がイントネーションの面白さよりも言葉遊びの方に比重があるからな気がしてて、お笑いのルール把握が進んだため言葉遊びみたいなテキスト上で理解出来るもののリテラシーが上がってしまっているのかもしれないと感じました。
「意味」でお笑い見ちゃってるのかもしれません。