現代4コマ展


現代4コマ展に行ってきました。


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展示作業を少しだけお手伝いさせていただきました。

 

いとととさんの現代4コマ展


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四方を4コマに囲まれて、この空間が4コマそのものだと感じ、自分が4コマになってしまった気分に陥り、現代4コマ展は4コマだ…と意味不明な事を思ってしまいました。これは現代アートなのか、はたまたただの4コマなのか、認識と疑問に包まれた不可思議空間が前頭葉に心地よく、素晴らしかったです。

 

そもそも「現代4コマ」とはなんなのか?

 

 

現代4コマとは?

 

現代4コマとは概念創作者であるいとととさんが創設した4コマ漫画の新しい概念です。

 


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「4コマ漫画」とは?

通常4コマ漫画とは、4つのコマ(齣)によって短い物語を作る日本の漫画の形式の一つを指します。

 


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日本では江戸時代に風刺画や戯画を集めた書籍が木版画で出版されていたが、それらの中にはコマのような形で連続したストーリーに仕立てたものが存在した。江戸後期に出された『北斎漫画』の中には、ページの中に4つの絵が配され、その最後で「オチ」をつけたものがあり、清水勲は「4コマ漫画の源流」と記している

Wikipedia「4コマ漫画」から引用

 

 

つまりコマという枠内でのストーリー構築がメインの創作部分であり(しかもそれは4コマ漫画だけでなくその他全ての漫画表現がその構造ルールの中で展開されている)そこに価値や意味が生じているわけですが、それを枠内だけでなく枠外を描くところまで作品とし、というか"枠"である「コマ」そのものを作品として提示してみせる、という大胆な手法を取り始めたのです。

 


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これによって訪れる4コマ漫画のコペルニクス的転換は「そもそも4コマ漫画という表現形態とは?」という根元的疑問に立ち返らせ、この情報化社会に置ける定型的なコミュニケーションや、SNSを含むメディア機能の軽率化加速化過剰化への懐疑、などを偶発的に提唱している、もしくはそういった行ききった資本主義による均一的価値観とそれに伴う疎外感がこういった表現と潜在的支持層を生んでいるために出来上がっていった文化のひとつの噴出点である可能性が高いと、一部の批評家の間では囁かれています。

 

と同時に、こういった「定型の打破」的な追及自体は今までの漫画表現の中でもあったパターンではあるとは正直個人的に感じてはいます。

 

ですが、「現代4コマ」の画期的な点はそこだけではありません。

 

むしろ「定型の打破」を「定型化」させ、その上で新ゲームを生み出し、個人単位から「波及させている」というところに諸行の真価があると感じています。

 

これは、漫画表現とはまた少し別の

「フリップ大喜利」~「ネタツイ」までの文化的流れの把握があると理解しやすさが変わると思います。

 

「フリップ大喜利」とは何か?

 

まず、大元の"大喜利"の説明ですが、

寄席の演芸から派生し、観客からお題をもらって即興で芸を披露する行いが定型化したもの。それを笑点というテレビ番組を中心に"言葉遊び"や"日本版アメリカンジョーク"的なものへ絞られていった流れがあったのだと思います。

 

そこから、そこに「フリップ」という"文字"や"画像"を加えた形にアップデートしていったのが、「たけしメモ」や「一人ごっつ」で行われていた企画によるものだと


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こういった「講義」「紙芝居」的なスタイルは漫談としても確立されていたジャンルだったと思いますが、それをバラエティ番組の中での一人喋りの手法として確立させて普及させたのは、このふたつではないかなと個人的に捉えています。

 

そして、そのデザイン性のまま("内P"とか"Vaporwave"の文脈もあったりして)それらが民営化してゆく。その流れの分派先のひとつが「ネタツイ」文化だと思います。

 

「ネタツイ」とは何か?

 

 

ここら辺の文化は、遡れば深夜ラジオのハガキ職人文化や、2ちゃんねるニコニコ動画などの話も複雑に絡んでくると思いますが、フリップ大喜利と違うのは「誰が言っているのか」という部分に匿名性があるため、"背景"そのものがテンプレ化しており、その分「ノリ」が促進されやすいというところだと思います。"それを言ってる(やってる)事自体のおもしろさ"って感じが強い。何かのフレーズと画像が流行ると、皆それを題材に次々とボケ発言を繰り出しTLがそのカオスだらけになってしまいます。

 

 

そして「現代4コマ」という表現形態は、流れ上はそういう文化圏から生まれているとも言えるのです。

 

いわば、これは

"こんな◯◯はイヤだ"と"写真で一言"の美味しいとこ取り。

 

"こんな4コマはイヤだ"と"4コマで一言"

 

という大喜利を「現代4コマ」と呼んでみているおもしろさ。

 

これが拡散性を生むのです。

 

(興味深いのが性質としては、そういった「Twitter漫画」や「ネタツイ」的な構造をしているのに、その波及が「デザイン」「アート」「謎解き」「数学」などのいわゆる"ギャグ""お笑い"的なテイストとは異なる文化圏の創作が繰り広げられているというところ)

 

 


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こういったフォロワーによる2次創作的な要素をそれ丸ごと創作世界とし、"ノリ"が作品そのものと直結している。そこにグルーヴとイノベーションが炸裂していると感じてやみません。

 

「漫画表現」としては枠を外し

「ネタツイ」としては新たな枠を作って

 

いとととさんは概念創作家としての見事なまでの脱構築を成したかと思うとなんとその先に、

 

"個展"

 

という次なる1コマを描き出したのです。

 

 

いとととの「現代4コマ展」とは?


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「定型の打破」と「ノリの作品化」を体現するかのごとく、4コマを現代アートと謳ってみる事のおもしろさをそのままに、その最大公約数を叩きだしていました。

 

"何をやっているんだ"

 

額縁に飾られ並べられた4コマ空間に対して抱いた感想自体が、現代アートの真価それそのものでした。

 

お手伝いをさせていただいた身から言えるのは、いとととさんの存在、行動そのものが現代4コマだった ということです。


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設営中に作品が壁から剥がれ、床に落っこちてしまった時、落ち込みもせずに「なんかそれっぽいから、これもそのまま作品ってことにしよう。」と言い出して本当に落ちたまま展示したり、


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国旗4コマのスウェーデンが逆さまに展示されていたのに気付かず、来場者から指摘を受けて「あ、逆だった」と言って直して、その一連の様子をそのままTwitterに載せていたり、

 

 

一番面白かったのは、日本語も4コマ漫画という文化も知らない海外の方が来廊し、作品を眺めてコンセプチュアルアートを見ているかのようなリアクションをしていたところでした。その光景含めて、僕はこの空間がアート的であり、また4コマ的であると感じていました。

 

そしてなにより

これらを0から発案し、実際に行動し、成立させながらもところどころ破綻させ、そしてそれ自体を物語化させる俯瞰視点によって面白いノリを実際に造ってしまう、そんな起承転結性とその逸脱を繰り返し続けていた

 

いとととさん自身が、誰よりも「現代4コマ」でした。

 

今月25日まで開催されているそうです。

ご興味のある方はぜひ

ご自身も4コマになってみて下さい。

 


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ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー感想

 


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見ました。面白かったです。

 

ネタバレになりますが、

と言いますかあまりネタバレが関係ないタイプの映画だと思いますが、

 

レインボーロードのところが色彩鮮やかで、疾走感があって、見ててワクワクする楽しさがあって、特に好きでした。マリオカートを久しぶりにプレイしたくなりました。序盤での工事現場を走ってゆくところもマリオ感満載で良かったです。横スクロールのジャンプアクションゲームの醍醐味は、あの部分でもう求めていた映像欲として満たされていたと感じます。あのシーンを操作したくなりました。

 

ゲームというものの擬似体験性と、

映画というものの追体験性の、違いも感じました。

 

なんというか、マリオに感情移入はそこまでしてなくて、ストーリー構成の妙に唸ったとかも全然無くて、見終わった後にずっとマリオの1面の音楽が絶え間なく流れ続ける感じのゾーンに入ったと言いますか…上手い人のゲームプレイ画面を横から見てたような面白さがありました。

 

 

それはおそらく、僕の世代的なものが関係していて、僕はスーパーマリオ64世代なので、映画の中で描けれていた元ネタがほとんど分かった、という部分が大きいと思います。今回SNS上で、映画批評家的な人たちと、そうではない視聴者との間で、論争めいた現象が起きていたのも若干確認したのですが(それすらも出処がどこからかわからず信憑性があるのか無いのか分かりかねますが…)たしかに、ファイヤーフラワーとかギャラクシーのチコとか説明不足だし、そもそもの土管の存在が前提共有過ぎるので、あれを伏線か何かだと捉えながら見たのだとしたら覚えた謎は解明どころか全く回収されずに終わるので、意味がわからん…となるのも察します。でも、まぁ…そういうものだしなぁ…と、マリオをやった事ある視聴者的には思ってしまうのも事実です。

 

なので、その世代差を含んだ前提知識による部分が大きいというのがあった上で、しかもそれがゲームであるという要素もかなり重要だと感じます。

 

ゲームの特性は擬似体験性だと感じるので、脳内補完が容易く行なわれてしまうのだと感じます。

横スクロールのスーパーマリオが顕著ですが、我々ゲームプレイヤーは画面の中をその世界の全てだとして神の視点で主人公を操作します。

この時、操縦先であるマリオに感情移入をそこまで深くしていないと思います。し過ぎるとプレイに思い切りが生まれないし、だからこその現実では体感出来ない運動神経を駆使することが可能だからです。能動的な楽しみ方。

 

それに引き換え、映画の特性は追体験性です。むしろ主人公に感情移入しまくります。キャラクターへの没入が100%達成されなくとも物語や世界観に整合性を求めそのリアリティによって情報密度を堪能します。もっと例外的な視点で言えば、それが抽象的で難解な作品だったとしても、その奥にある監督の意図を読み解こうとする、という楽しみ方があります。これらは全て、受動的な楽しみ方です。逆を言えば、映画そのものには視聴者が「操作」できる余地がないという事です。

 

 

この違いがこのコンテンツをどう評価するか、受け手の視点によって左右される率が上がる事を意味しているのだと感じます。

 

 

やはりマリオをある程度プレイした事があって(特にやっぱり、64以降の3Dになってからの横スクロールじゃないマリオが体感的に染み付いているかどうかがメイン)キャラクターやアイテムがどういう意味のものかを把握していればしている程に答え合わせ的に楽しめる構造になっていて、それが今までプレイしてきたマリオを想起させ、自身のプレイ遍歴を自動的に重ね合わせてしまうために、鑑賞後に勝手にクリア達成感を味わってしまうのだと思います。下手したら映画館で鑑賞をするという行動そのものに操作欲の刺激があるために、批評行為へのバッシングが目立っている可能性もあるのでは?と考え過ぎてみたりしちゃいます。

 

また、これはこの映画だけでなくさらに外側の視点になるのですが、エンタメやコミュニケーションのあり方が、情報化社会の中でコンテンツの前提共有をかなり孕んで運営されているからこそ成り立つ、という状況が目立ってきたと感じています。マリオだけでなく、漫画やアニメが原作で映画化され元からのファンが大きく反応する現象ももはや当たり前の光景です。音楽で言えばvaporwaveとシティポップの関係性や、お笑いで言えば大喜利文化というものの領域拡大など、これらは全て知識や体感の前提共有の伴いと、当事者参加者意識が含まれている代物です。インターネットが浸透してから以降の新しい普遍領域。

大衆娯楽と二次創作の境目はとっくに溶けて無くなり、共通体験という価値観はかつてほどは所持しにくくなっているのかもしれません。受動的なコンテンツでは。そういう点でもゲームというものが擬似体験そのままに追体験できるほどにプラットフォーム的な土台がかなり盤石になってきたという事の表れなのかもしれません。

 

なんて事を言っていたら、

余計にマリオをプレイしたくなってきました。

 

 

「裏表紙」ダブルブッキング川元文太監督作品 感想

ダブルブッキング川元文太さん初監督映画「裏表紙」を見てきました。

面白かったです。

 

なんと言うか、ダブルブッキングのコントの設定に出てきそうな(初期の頃の、「友達の家の物を入れ換える」「友達を誘拐する」的な発想のネタ)、だけども映像でしか表現できない、絶妙な哀愁、物悲しさ、嫌な感じ、気持ち悪さ、などがあって良かったです。

 

なんか、川元さんの笑いって、

「ダメを愛する」とかっていう感じじゃなくて

「ダメであり続ける」って感じと言いますか…

 

もはや

「愛とはダメなものである」ぐらいまで行ってる雰囲気すらあって、

 

最終的な着地点含めて

世の中の、よいとされてる物とか人とか、正義とか倫理とかを、それこそ甲斐性がなく有耶無耶になし崩しにしてゆくダメ男のように、ズルズルと引き剥がしてしまう行為に、

 

ある種の真理とカタルシスが、ガス漏れの如く充満しててゆっくり窒息してゆくような気持ち良さがありました。

 

 

ここら辺からネタバレになってしまうのですが…

 

 

登場人物全員に、共感と侮蔑を同時に注げる歪なディテールが舌触りとしてあって、

 

特に、いとうせいこんさんと、磁石佐々木さんのジトッとした嫌な感じが色気があって好きでした。立場のある人の歪みかた。目付きにダメさが宿ってる、管理職ゾンビっぽさ。結局、あの2人も働いてるフリでしかないし、それって悪役というポジションですら実態が無いという事を、二重構造で描いちゃってる。

 

マツモトクラブさんの目立たないように生きてゆく事の肯定と、そこへのプライドが感じられるスタンスは、一見格好良いし物語の中ではそこを中心に描かれているけど、端々でさりげなく挟み込まれる「生徒に手を出してる」「半額のシールを張り替える」などの根本的な安っぽいクズさが丁寧に紡がれてるところも逆に素敵。

 

まんざらでもねぇ涼平さんの薄っぺらさも味わい深かったです。素直で愚直な愛されキャラとするには、全部を舐めくさってるし、しかも自分のその主観にあんまり気付いてないという、一周回って結果爽やかな喉越し。こういうのってバカキャラみたいに処理されがちだと思うのですが、なんかそこら辺が、上り詰めてゆく奴の性格としてリアリティがあって、凄い天然でもなけりゃ、凄い計算高いわけでもない、小田嶋さんとのくっ付き方とかにそのしょうもなさが存分に表れていてニヤニヤしちゃいました。

 

そういった登場人物たちの、リアリティのあるうっすらとしたダメさ、が心地よく、それが映画の世界観を包み込んで、見終わったあとに自分の心身にそれが染み込んでいったのを感じました。

 

 

ストーリーとしての教訓的なものも、別に無いんじゃないかと思うけど、無いようであるような、ちょっと昔話のような勧善懲悪っぽさもあるにはあって、

 

単純なヒロイズムとして捉えるなら、

「サボるが勝ち」なんだけど

だとしたら、佐々木さんが撃退される意味もあまり無いし、でもだからこそ小市民視点での爽快感もあったし、ただマツモトクラブさんのクズである事に変わりはないし、そこら辺が川元さんのあの乾いた視点を一番感じるところでした。

 

絶対的に「いい話」ではないのだけど、

なぜか「いい話」だったかのように感じてしまう。

 

面白かったです。

また見たいです。

 

 

電波少年で箱の中に閉じ込められていた川元さんが、「空っぽの箱」を運んでいる映画を撮っている事が、

 

なんか良かったです。

 

ちいかわ=弱者論


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「ちいかわ」が好きで、よく読んでいます。

漫画家ナガノ先生のTwitter発の漫画、

グッズもたくさんあって、老若男女から幅広く愛されてて大人気です。

 

 

 

ほのぼのしたキャラクターと、可愛らしい世界観、とは裏腹に、実は殺伐とした描写や設定が、時々垣間見れて、その物語への読者の反応や考察も込みで、より一層楽しめるという、SNSエンターテイメント になっていると感じます。

自分も、そんなゾクゾクするような、ちいかわワールドと登場人物の心理描写に、一喜一憂しながら、Twitterで読むのにちょうど良いサイズ感のストーリー進展を、味わってきました。

 

 

乱立する考察動画や、増殖するコラボ商品に、この世が「ちいかわワールド」に突入してしまったかのような不思議な気分を覚えながらも、ぼんやりとそれらを眺めている内に、とりとめのない事をいくつか想い巡らせました。それを書いてゆこうと思います。

 

※ストーリー考察や、キャラクター愛を語るような文章ではなく、個人的に漠然と思った事をTwitterで呟き溜めてたので、それをまとめたものになります。

 

目次

 

なんか "小さくて" かわいいやつ

これは、読んでて、常々感じている事です。

 

 

こういう、児童向け的なキャラクターが、"国民性のようなもの"を獲得してゆく中で、癖の強い部分が削ぎ落とされて、結果、可愛らしくなる、という事は今までも数えきれない程あったと思うのですが、「ちいかわ」は最初からそれを構造的に持ち合わせていると感じます。

丸っこくて、瞳がつぶらで、声がか細い。

 

弱者性がキャラの魅力に、前提段階で直結してる。

 

 

潜在的な弱者需要のようなものが、上がってきている気がしています。

例えば、時代を遡って、ドラえもんサザエさんクレヨンしんちゃんちびまる子ちゃん、が漫画段階だった時の、キャラクター性や絵柄と比較してみると、ちいかわのそれより、「あざとく」ないんです。

 

なんかもっと朴訥で、生々しくて、弱者性とは違う、生物としての社会的な愛嬌が舌触りとしてある感じ。そんな絵柄が多い気がします。

時代によって「親しみやすさ」の定義ごと変わっていたり、漫画表現の技術や機材の進歩など、関係あるのは、もちろんなのですが、そこに何らかの社会通念の経年変化も感じます。直結する「可愛いさ」の先鋭化、抽出加減の高次元化。キャラが「可愛いさ」しか、求められてなくて、それによって原材料である「弱さ」の成分が濃度として高まってるような感じ。

 

 

「安心して虐げられる弱者性」は

「安心して可愛がれるキャラクター性」と

繋がっていると思います。

 

「弱者だから毒吐いても許される」

「弱者に毒吐いたら許されない」という

相互作用で、炎上エンタメ的なものは成り立ってると思います。

 

ちいかわは、その構造原理を「可愛いさ」に特化させて、その部分を作品に仕上げているのではないでしょうか。

 

 

 

「愛玩」「共感」「加虐」

これも、ずっと感じています。

 

特に「共感」が分かりやすいと思います。

というか、そこに関しては、Twitterというツール自体が、かなり共感装置として磐石なので、ちいかわ以外のコンテンツも、Twitter発祥だとそういう支持を集めがちだと思います。

 

「加虐」

精神的にも、肉体的にも、基本的に主人公である、ちいかわに向けて、それは行使されてて、その時「かわいそう」だと共感すると同時に、「いいぞもっとやれ」的な加虐者側の立場への共感装置として、特に初期の頃は、うさぎと、ハチワレは、そういう役割として存在していたと思います。

 

「愛玩」

これは、漫画という表現法方、そこに用いられるストーリーに対して、「キャラクター」という概念が、そもそも愛玩性を持っています。それを、より強調してゆくと、コミュニケーションが排されるという現象だと感じます。

 

 

こういった循環性の中に、漫画のジャンルとしての表現パターンも見受けられる気がします。

いわゆるONE PIECE等の、戦闘シーンがあるタイプの漫画。ちいかわを読んでて、最初に意外性を感じる、一番大きなフックとなる要素だと思います。

あたしンち

こういう、あるあるネタっぽい話が、ちいかわのパブリックイメージとも結び付いてるスタンダードな要素のひとつだと感じます。

 

 

蛭子能収

世界観自体はシュール系ナンセンス系抽象的なギャグ漫画っぽい。

そういった作風って、作者の精神状態が反映されてるものだと思うので、大衆性を高めてゆくとエピソード的になるんじゃないかな、と思います。

榎本俊二福満しげゆき、とかの不条理漫画がそれに該当してると感じます。

榎本俊二

福満しげゆき

ちいかわ にも、その要素は感じられます。

 

どの要素で楽しんでるかが、読者によってかなり別れているのに、ひとつのストーリーとして成立しているところに、凄みがあります。

 

 

SNS漫画との比較

犬のかがやき

 

100日後に死ぬワニ

 

おぱんちゅうさぎ

 

わたサバ

 

 

あと、それらのバランスを全部反転させたものが、「地元最高!」だと思っています。逆ちいかわ。

 

地元最高!

殺伐とした弱肉強食のアングラ世界に、どうしようもない可愛らしさが横たわっているような漫画です。

 

 

さて、

こうして見比べてみて、なんとなく感じるのは、いずれにせよ、なんらかの弱者性。非常にザックリとした見立てですが、上記した漫画達は、「愛玩」「共感」「加虐」要素が、入っていて、それは「弱者性」を前提にしたものだと感じています。

 

もちろん、そういった方程式めいたものは昔からあるでしょうし、これらの作品は、SNS浸透以降に登場しただけに過ぎないという事でもあるので、こじつけ的でもあると自覚しています。

 

ただ、その「共感」であったり「加虐」であったりは、近年、どんどんピンポイント的に描かれていってるとも感じています。いわゆる「繊細さん」的な、あるあるネタは、その解像度が上がってゆくにつれ、普遍性も強まってゆき、参加人数と共に、社会生活や人間関係、果ては自己啓発的なものも含んだ、自我の形成に対しても「マニュアル化」が促進されていってるような自然現象を感じます。

仲間内での言葉遣いですら、10年前より公衆意識的な道徳心が働いてしまう人も、少なくないのかもしれません。

 

もしくは、「地元最高!」のように、社会基盤的なゾーンに置いての弱者性を、メタファーとして描いている、との捉え方も出来るとは思います。(そこに関しては、後天的な要素だとも感じます。描いてゆく内に世界観が深まってルール設定が出来上がっていったグルーヴのようなものを感じるからです。)

 

それは善悪両面を持ちながら、SNSの浸透と共に、高度化しているコミュニケーション形態が、第三次産業の発展に影響されながら、構築されていった「社会芸術の表れ」の一部でもあるのだと感じます。

 

ちいかわと推し文化

また、漫画表現の外側にも、それらの影響は拡がっていると感じます。

 

これこそ、なんて言えばいいのか、言語化が難しいのですが、本当に似たような、なんとも言えない気持ちになるんです。

 

ロングコートダディだけが、該当するわけではないですが、お笑い芸人やテレビタレントも、そういった「推し文化」的な需要を理解した上で、エンタメとして振る舞っているような瞬間を、見ていて多々感じます。

 

「推し」なる言葉が、いわゆる「ファン」と違って、自己規定ではなく、対象の私物化、的な意味合いが発生していると思います。

 

また、推す側だけでなく、

推される側からの視点を想像してみると、自己表現の中に「弱者性」を用いる事でのリスクヘッジと、逆を言えば、搾取構造にどう身を置くかの判断が、求められている、という事でもあるのではないでしょうか。

 

そして、これはエンタメだけの話ではなく、日常のコミュニケーションや、社会構造の内部に、組み込まれていっている要素だとも個人的には感じています。

 

人間の「ちいかわ化」とも呼べるかもしれません。

 

 

また、そういった「推し」的な支持の文脈の中には、副産物として「炎上」的なものも複雑なバランスで組み込まれていると感じます。

 

「推し」の敵、「推し」に裏切られた、「推し」を止める(変える)、「顔推し」「箱推し」、リアコ、同担拒否、検索避け、

 

などの概念は、対象への愛玩と同時並行で、対象外への防御的加虐を、若干孕んでいると感じる傾向もあるように思えてしまいます。(推すこと自体が悪いわけではありません)

 

そういった反比例性を、作品の中でキャラに背負わせて描く事で循環させる骨組みを、ちいかわ、まどマギCCさくら、などには感じます。「闇落ち」の全体像化ともでも言えましょうか。「闇推し」とでも略しちゃえそうです。

 

そういう意味では、

やっぱり「弱者」という概念そのものには

セットで「強者」という概念が存在している

 

という事でもあるのかなと感じます。

 

「でかつよ」や「鎧さん」が描かれるの必然なのかもしれません。

 

まとめ

ちいかわの「弱者性」を見ている時

読者は「強者」に成ってしまうし、

 

この作品がここまでのムーブメントを生んでいる事自体に、圧倒的な「強者性」が発生してもいます。

 

そう捉えてゆくと、それを享受している我々 消費者の方が「弱者」と言えるのかもしれません。

 

そこにあるのは、「弱者」「強者」の

表裏一体性です。

 

 

なんか、いろいろ考えたりしましたが、

 

ちいかわの「可愛いさ」を見てたら、どうでもよくなってきました。

 

これからも、読みます。

 

 

 

 

 

 

「ウエストランド」M-1 2022

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ウエストランド井口さんは

太田光さんっぽい毒っぽさを

田中裕二さんのリズム感で発露してる芸だと思う。

 

「いじり」と「いじられ」の合体。

毒を吐かれながら毒を吐く側を制す。

 

ウエストランド井口さんって

「毒舌」じゃなくて「ツッコミ」だと思います。

 

フォームとしては対象へ過剰に指摘をしている(もっと言えばその積み重ねで「いじり」の領域に到達させてる)。森羅万象メタ視点丸ごと全てにツッコんでいる漫才。

なのでボケになっちゃってるのは河本さん含めた観客である我々の方。

 

 

「毒舌家」には免罪符が必要論

一発屋であるとか、年代や性別的にマイノリティな立ち位置であるとかの理由で、有吉さん、坂上忍さん、ヒロミさん、マツコさん、梅沢富美男さん、ひろゆきさん等が活躍してきた訳ですが、ウエストランド井口さんは純粋に弱者振る舞い。「毒をもって毒を制す」感が凄い。

 

山里さんとかアンガ田中さんは「キモイ」振る舞いの上で他虐だったけど井口さんはもう「かわいそう」前提でやってきてると言うか。

自虐が突き抜けて八つ当たりになってる。だから強めに「いじってもいい」ってルールになってる。

言葉選ばずに言うなら

「街中で叫んでるヤバい人」のタレントバージョン。

 

井口さんのスタイルが特徴的だなと感じるのは「いじられ」と「いじり」がフォームとして合体してる所だと思います。

毒を吐かれても毒を吐いてもどっちでも面白さが変わらない。

この清濁併せ呑む感じってあんま居ない、

というか居るけどあんまりここまで広範囲に稼働しないタイプだと思います。

 

「毒舌」って免罪符を得た後維持するのも難しいんだと思う。

そしてそれは有吉さんや坂上さんみたいに切れ味を緩めて「いじる側」として立ち位置を固定化させるか、村本さんとか太田さんみたいなKYキャラに積極的になっててそれによってある領域での言論性を守る「嫌われ役」になるかのどっちかが多い。

 

だけど井口さんはそのどっちでも無い。もしくはどっちでもある。

井口さんはむしろ上記したような山里さんやアンガールズ田中さんがやってた「いじられ側」からやって来てる。

そしてその上でカウンターやエピソードで毒を吐いてる。

もっと言えばツッコんでる。

ここがなんか時代の象徴的だと思う。

 

そういう「いじられ」と「いじり」の垣根が無くなってるトリックスター的なタイプってかなり稼働範囲が狭いと思うんです。

イメージは岡本夏生さんとかラッセンの永野さんとか、あと微妙におぎやはぎ小木さんとかもピンだとそう。「毒舌」と「天然」が混ざってる。でも井口さんはそれで稼働範囲広い。

 

ボケ芸人の終着地点 河本太

むしろ論ずられるべきは

「ボケなのに全くボケないどころかその事に自覚すらしていない、というボケ」をしている河本さんの在り方ではないかと思う。審査員も観客も視聴者も評論家も否定派も擁護派も、「自分がボケだと自覚出来てない」と思う。

 

「ツッコミを中心に持ってくる」フォーメーションってM-1という漫才進化の過程の中で多種多様に枝葉が分岐していったと思うのですが(例えツッコミやWボケ等のシステム)その時のボケ役側の在り方って「ツッコミワード誘発のフリ」になりがち。

そして、その進化の終着地点が

河本さんの「ボケないボケ」。

 

霜降りの「動き」ミルクボーイの「情報」ももの「顔」、等のようにボケ側の存在意義はツッコミワードを誘発させるためのフックという部分にどんどん集約され発言や振る舞いが簡素化してる。もも辺りで素材の身体性から連想する周辺領域にツッコミの矛先は向いててこの段階でかなりボケとして没独自的。

 

そういう意味では井口さんって「無」にツッコんでいるとも言える。最後につまらない答えという取って付けたようなボケを提示してその均衡をかろうじて保たせてる程に河本さんの機能は極限まで「井口さん以外」で在り続けてる。井口さんは「無」にツッコんでるから「井口さん以外」全部にツッコめてる。

 

そして、その井口さんに対して面白がろうとも憤ろうとも「過剰なツッコミをボケと見なす漫才」だと認識して指摘してしまう段階で「井口化」してしまう。「過剰なツッコミをするボケ」の井口にツッコミを入れてしまっている。「過剰なツッコミをするボケの井口にツッコミをするボケ」になってしまう。

 

さらに混沌を深めるのなら「過剰なツッコミをするボケの井口にツッコミをするボケ」になってる視聴者への、お笑い擁護論も、これまた「過剰なツッコミをするボケの視聴者にツッコミをするボケ」になってしまう。「ツッコミをするボケ」の螺旋階段。なおかつ、それを放棄すると「河本化」してしまう。

 

この「河本化」が一番グロいところだと個人的に感じてます。ウエストランドの密室芸のトロ部分。我々はもう「ツッコミ」になってしまう事から逃れられないのに、ボケ自覚なきボケとして「つまらないクイズ」の2択を自分以外に迫ってるだけ。差別にあって、お笑いにない。お笑いにあって、差別にない。

 

みんな皆目見当違い

僕はどうしても河本さんに共感してしまうんです。河本さんって「ポンコツ」とか「ヤバい奴」的な、じゃない方芸人処理をよくされてますが、それよりもっと外側に居ると思う。言語化してみるなら「素人」。素人が舞台に上がってきてるから、そこ起点に井口さんは四方八方にツッコんでるのを許させてる。

 

逆を言えば、それによって井口さんさんはその「素人」越しのフィルターに晒されて吊し上げられがちな構造の中に身を置くことになるし、だからこそ内輪ウケとも呼べる領域をメタ視点含んで笑われる事が出来てる(「内輪ウケかよ」と一番外側から見下される事自体も現象に組み込んでコメディにしちゃえる)

 

なんか、この話を突き詰めてゆくとルボンの「群衆心理」や、アドルフアイヒマンとか、そういう事象に突入してゆく気がします。

 

井口さんは確かにジョーカーなんだけど、そのダークヒーローを生んだ理由は、河本さんの素人性によるもので、その素人性とは観衆である我々の事であるわけで、そして井口さんはそこに向けてツッコミを撒き散らしてるわけです。井口さんを生んだのも我々だし、我々が井口さんになる可能性もあるんです。

なんならむしろ、予選でやってたネタは「過剰な"多様性への配慮"」を面白さにしてて決勝とコンセプトが逆。河本さんの「ボケ自覚無いボケ」も、井口さんの「ツッコミ自覚あり過ぎるツッコミ(によって最終的に何も言えなくなる)」も、キャラクター軸に変化がないのが凄い。

これも。皮肉が効いてて面白いですよね。しかも決勝では「配慮しないという配慮」に舵を切る事によって井口さんの攻撃性が増して、結果優勝してるのも興味深い。ウエストランドに拒否反応示してる人や、マイノリティへの意識を論じてる社会批評家的な方々こそ、見てほしい。

 

河本にあって素人にない

ウエストランドANNやノブロックTVとか見てると、ウエストランドがやってるお笑いって「悪口」じゃなくて「素人いじり」なんだなと思いました。

痛快な毒舌というよりも、対象を限定してツッコミによっていじってる。

だから禁じ手感、御法度感があって面白いんだと思う。しかも河本さんが素人側にいる。

 

ウエストランドの潜伏期間が長かったイメージって、この河本さんの「素人性」みたいなものを矢面に置いてるポジショニングだからだと感じます。バナナマンがまず日村さんの不細工キャラを押してたように。オリラジがまず藤森さんのチャラ男を押してたように。素人が前線に立ってるフォーメーション。

だからこそ、笑っていいとものオーディションで河本さんのムチャクチャやる感じがウケて採用されたというエピソードが立脚してるんだとも感じます。芸人らしからぬ素人自我の精神が先行してるので、それが通用してもしなくても井口さんのメタ視点込みのツッコミによってどっちにも成立させれる構造。

 

でもそれって諸刃の剣感も拭えなくて、

ようは「素人の立ち位置」に居続ける事が要にもなっちゃってるので、どうしたって内輪ウケの地場が強くなっちゃう。

その輪を広げるのに時間が掛かったし、今もまだある程度の批難(という名の外側からの反応)が摩擦として無いといけない性質の笑いだと思います。

 

なので、河本さんの色気ってそういう素人性のある種の刹那感を自覚してるところに正体があると感じる。河本さんは、あらゆる面で素人性が強いけど「自虐」は言うんです。そこに関してはサディスティックだと思う。その瞬間は、すぐ側に居ると思ってた河本さんに「お前も素人だろ」って言われてる気分。

 

 

↑これって、河本さんをいじってるようで、太田光代さんをいじってるし、もっと言えば太田光さんをいじってるツッコミだと思う。しかも神田伯山さんが「ピカソ芸」っていじるのよりも、もっと俯瞰して突き放してる素人性への言及。冷めた目、斜めから世の中を見ようとする芸人自我自体をいじってる。

 

それらを考えてると、改めてウエストランドという漫才師はその素人性の塊である河本さんをボケに配置してる事が凄いと思います。

(昨今のお笑いはもはやボケツッコミの二元論で語れないですが…)

 

 

いいですか皆さん、

これって、我々素人は

「ボケ」だと言われてるようなものですよ。

 

我々は河本さんなんだ…

 

「さや香」M-1 2022



さや香の決勝の漫才って、

題材が下ネタだったから、ちょっと引いちゃったんじゃないかという感触がありますが、たしか2003年のフットボールアワーって「SMタクシー」ってネタで優勝してたと思う。思いっきり真正面から下ネタ。

 

「題材」のポップ化

時代性の変化や、ルッキズム的な観点や、ネタとしての構造など、理由はいろいろあるとは思いますがそれだけじゃない気がします。

 

ああいうテンポで見せるような漫才師のタイプだと題材がポップになり過ぎるんだと感じる。さや香のあのネタって、オズワルドや男性ブランコがやる方がしっくりくると思う。

 

朧気な記憶なんですが、オンエアバトルの第2回チャンピオン大会で品川庄司が漫才を恋愛に置き換えて構造ごとコントにしてゆく、みたいな手法のネタをやってた気がするんですが、それを見た時と近い感覚を覚えました。

なんか銀シャリも演芸大賞か何かで似たようなタイプのネタをやってた気がします。

 

上手く言葉に出来てはないのですが、ああいう「設定に対しての人物の配置で面白さを構築してゆく」タイプの脚本って、規定演技が上手すぎるとちょっとノイズになっちゃうのかも。

どっちに没入すればいいのか一瞬わかんなくなると言いますか。

 

 

モヒカンは坊主か?

キャラ漫才はしゃべくりか?

凄く失礼を承知で例えてみると、

 

宝塚歌劇団」に興味が無いと

「男装してる女性の謎の生命力」にばっかり目がいっちゃう。

 

「プロレス」に興味が無いと

「飛び散る飛沫や異様な熱気」とかばっかり気になっちゃう。

 

なんかそんな感じ。漫才師として上手すぎて、題材の印象が浮き彫られちゃってる。

 

なので、その演技上の世界観に「ついて行け」たら、「下ネタ」がそこまで気にならない(というか、その若干の違和をフックに引き込んで関係性変化を物語化してるロジック)と思うんだけど、それについて行けなかった場合は「下ネタ」である事や「高齢の親」「佐賀県dis」等の突起物の印象が残っちゃう。

 

これってトレンド的にちょっと前までは「キャラ」でやってたと思うんです。

「過剰演技をデフォルメ化させたキャラクター」の若干の違和をフックに基本的にその連打で引っ張ってくお約束的手法。

一度設定したキャラ軸が立ち位置も含めて、ひっくり返らない。

アンタッチャブルとかチュートリアルとか。

 

「題材」よりも「キャラ」が印象に残る。ただ、その「キャラ」が構造にまで食い込んでいるから、そのキャラについて行けなかった場合は「演じてる事そのもの」が突起物として大きめの違和になっちゃう。

上記したような宝塚やプロレスに興味ない人状態。つまりハマれない。さや香はそれを避けてたと感じました。

 

ブラマヨ返納

で、その回答のひとつとして、

ブラマヨ的な展開の模倣」だったんだと思います。

実際問題、やってる事はブラマヨのそれと組み立て方が、たぶん真逆だと感じます。

ブラマヨは喧嘩調のフリートークから積み上げて「漫才の型」に近付けてる。なのでむしろオズワルドとかウエストランドの方が近いと思う。

 

さや香ブラマヨを彷彿とさせる」

ってのは

 

「ジャンポケ太田さんが東京03に影響を受けて、そういうネタを作ってる」感があります。

 

 

 

 

「ロングコートダディ」M-1 2022





「漫才かコント論争」に置いて舞台をどう使うかが主に論じられてますが、

「漫才の中のコント」というものの機能面から考えると、そこには「短縮」という要素があると思います。

ロングコートダディ

ラソン、タイムマシーンで「時間」短縮をしてたし、

男性ブランコ

音譜運びで「物質」を短縮してた。

 

「てい」

落語に置ける

「扇子で蕎麦をすする」「左右に顔を動かして2人で会話してるように見せる」みたいな「てい」。

それは、言語の延長線上で演技のみの領域に突入させてるから「漫才コント」なる言い回しで理解され認知されてると思うのですが、逆だと思う。

「言語」がそもそも「短縮」機能を持ってる。

 

「言語」自体が「意味の置き換え」によって成立していると思います。

 

「2」という文字は2文字じゃない。

これ1文字で「2」という意味に置き換えてる。

 

「言語」自体に意味は無く、対象の意味を抽出して言語に置き換えてるわけです。

 

なので、我々は常に「言葉が通じあってると思い込んでいる者同士のコミュニケーション」を演じてるに過ぎない。

その社会生活の中でショーとして披露される「漫才」なる代物はすべからく「コント」なんです。

 

「社会生活」というコントの中で、芸人さんが「漫才」を演じているという入れ子構造になってる。

そういう風に捉えると、

「漫才の中で行われるコント」というものは、

むしろ

「漫才というコントを演じるのを止めて、人前でシンプルに何かを演じてる」という

原始衝動的な領域にも感じます。音楽的なもの。

 

「短縮」「誇張」のレベル高ぁ

センターマイクから離れるか否か、目線や所作が漫才師のそれか、という観点自体が演技指導目線になってて、言うなればむしろ「コント師」的。もっと言えば「役者」的。演技というものの特性は「誇張」「増幅」「擬態」という側面を持つから「短縮」とは反対の性質があると思います。

 

そういう意味ではむしろ、

さや香の方が「演技」が上手いんだと思います。

「漫才」の上手さがそれを指すのなら

「漫才師というコント」の演技が洗練されてる。

ただ漫才というものを「言語の掛け合い」と定義するならば、その中で行われるコントの方が「短縮」という本質的な意味を持ってると感じます。

 

クレイジーキャッツのこれとか。

演奏の途中にコントが入ってくる。

このお葬式のやつはまさしく短縮が面白味。

「漫才の中で行われるコント」ってたぶんこういう発祥で本来はこれだったんだと思う。

「漫才が上手い」って評価は、

これに「演奏が上手い」と評してるような状態。

 

 

ショートコントダディ

ちなみに、これがコントとなると「反復」という「短縮」とは真逆の部分が面白味になってるくる傾向があるのが、ロングコートダディの興味深いところです。

 

KOC2022でのネタだと

むしろ「同じことを繰り返して顔芸」という点で面白さを提示していました。

この時、ニッポンの社長も似たタイプのネタを行っていたのですが、けっこう明暗が別れるような評価だった記憶があります。

ニッポンの社長は、暗転問題やエヴァのパロディの世代的認知差もあると思うのですが、構築方法がファンタジー寄りで、その点で無意識的にリアリティ寄りのロングコートダディと比較されたのではと感じました。「反復」を題材するコントとしての評価に影響が生じるポイントだったのかも。

 

「料理番組のオープニングの盛り上げ方」や「あの時代の深夜アニメの独白のカット」とかを面白がる感覚自体は出発点が近いと感じます。

「演出」そのものをトレースして「いじる」ってお笑い。

その違和を増幅させるために「繰り返して顔芸」なんだけど、それを提示する役がツッコミ側が行ってるか否か。

 

ニッポンの社長はケツさんがその世界観に振り回され結果「顔芸」を繰り返してる。

 

ロングコートダディは兎さんが堂前さんを振り回す手段として「顔芸」を繰り返してる。

 

ここが大きく違うと思います。そしてコントというものの現段階での評価軸は兎さん的なキャラ造形を施すリアリティ寄りなのかも。

 

ニッポンの社長のコントは、実際にアニメにしても面白いと思う。

 

なるべくエヴァの絵柄に近付ければ近付ける程、その面白さが増すと感じます。そういう意味では、脳内補正があった方が良いと思うから世代間把握差は実際に評価に影響が生じてたと思います。(そこが核心部分ではないと思うけど)

 

ロングコートダディは絵面は必要だけど間合いの面白さでもある。

 

なのでアニメにするなら

ニッポンの社長は「ポプテピピック」のパロディの仕方(終盤の崩しはAC部みたいなノリ)

ロングコートダディは「GOLDEN EGGS」とか「Peeping Life」みたいなラジオコントに映像足してるやり方

 

みたいな面白さだったと思いました。

 

 

リアリティ寄りの世界観の中で

「反復」性の高い面白味を提示している、

そのコント自体を「短縮」し

漫才に施しているという状態が

ロングコートダディの優しさと強引さが混ざったような魅力だと感じます。