バキ童

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バキバキ童貞こと春とヒコーキぐんぴぃさん

 

YouTubeチャンネル登録者数174万人

2025年1月新春公開予定「怪獣ヤロウ!」主演

 

 

この記事に辿り着いている方にはもう説明は不要だとは思いますが、

最近また一段その知名度と影響力を着実に積み上げていて話題に事欠きません。

 

 

 

近年、あらゆるジャンルのコンテンツの総量が膨大に増えてそのファンダムは拡張し界隈化し、それに伴いそのカルチャーへの読解力や言語化の価値比重は日に日に増して「考察」として需要を生んでいると感じています。

 

かつてそれらは消費者の中でリテラシーの高い方が自助的に発信し共同財産として機能していたのだと思いますが、今このネット社会で発し手と受け手の境界が溶けて無くなっている状況だと、本来考察される側の芸人さんという立場の方々が何かのコンテンツの考察者としてその語りをコンテンツとして発している場合も珍しくありません。

 

その最新版が令和ロマンや××clubであり、振り返ると東京ポッド許可局や伊集院光さんとかもそこに該当していた芸人さん達だと思います。

そして、春とヒコーキもそういった文脈上にいる批評的な語り口やカルチャー全般への理解度と許容範囲を持っていて支持されているタイプの芸人なのだと感じますが、

 

特殊なのはやはり
ぐんぴぃさん単体が芸人界の外側で”カルチャー”そのものとして象徴化している所だと思います。

 

なので、現象そのものをある種意図的に利用してるからこそ、


「語られてる」とこと


「語られてない」とこが分離していると感じています。

 

 

そこも含めて面白いなぁと思っています。

今回そういうあまり語られてないなと感じるところを話していきたいなと思います。

 

 

 

バキ童というネットミーム

 

ぐんぴぃさんと言えばネットミームです。

「バキ童」というミームは本人もエピソードトークとしてネタにしていますし、周囲の芸人さんも認知されている前提でいじったり企画にしていたりします。

 

ネットミームそのものはいろんな種類があって人だけに留まりません。人に絞ったとしても個々にそれぞれいろんな複雑な文脈があるし、それをテレビや他メディアで扱う事の難しさ、あと扱えたとしてもまだまだ世代的にも局所度数がある程度高いので、それを題材にする事そのものの面白さが大衆性を獲得してはいないわけですが、ただだからこそ面白さの濃密さは上がっているのだと思います。

 

「知ってる」というだけで共通言語性は上がりその情報を凝縮して感知するからです。その共犯感、愉快犯めいた不特定多数の匿名集団心理によるバイアスが強い情報だから、そもそもネットミームとして拡散されているわけなので。

 

なので、ぐんぴぃさんの

「本人がネットミームになっている」という状況は、

芸人として利用しない手はなかった、いやむしろ せめて利用しないとイメージ脱却が出来ないのでネタにするしかなかった、という思考回路に至るのが想像に難しくありません。

 

 

さらに、ぐんぴぃさんは自分だけではなく他のネットミームについても語ったり、その当事者の方々に実際に接触したりしてドキュメントバラエティ化させていたりします。

 

当事者の方々はそりゃもちろん生身の人間なので

千差万別多種多様な人生がありますから、ぐんぴぃさんと同じように発し手側に位置している人も何人かいて、そして同じようにエピソードトークとしてネタにしている方々も少なくありません。

 

そういう方々の話を聞くのも視聴者としては面白いです。

 

と同時に人だけに留まらず単純にネット上の局所性が高いトピックをネタにする行為そのものは、ぐんぴぃさんの知名度や影響力が上がれば上がるほど、それに伴い賛否も上がってくると思います。

そこら辺に対してもある程度の取り扱い注意意識は個人的に感じてはいるところです。

 

 

上記の呟きからバキ童チャンネルのネットミームネタに対するセンシティブさについて、少しだけ連鎖的に話題になっていました。

元呟きの引用まで含めて若干バキ童擁護論に空気は傾いてるかなと感じました。

 

お笑い芸人としてのぐんぴぃさんがインターネットカルチャーをお笑いにしてゆく行為は、
例えばもっとお笑い界の中心地点での知名度的にその代表格とされるようなマヂカルラブリー真空ジェシカ、令和ロマンなどのようなコンビよりも、
もう一段深いところに身を置いていて

そこに共感性や同時代性が強い磁場で発生しているので、面白さが濃密になってると感じています。

 

 

と、同時にそのセンシティブさは周辺的にたびたび言及され話題にはなってて、

この認識ってかなり世代差、領域差、知識差、が生じているためにその倫理観が断層的になっているのだとも感じています。

 

元の呟き主の方はここら辺のネットミームについて危うさを感じているのだと思います(ただ、バキ童チャンネルはここら辺の扱いについては慎重になっているとは感じる)。

ここら辺のネットミームは、たぶん春とヒコーキをお笑い芸人として認識している層はあまり馴染みがないじゃないかなと感じています(そもそも知らないからどうセンシティブなのかわからない)。

 

そして、ぐんぴぃさんをバキ童というネットミームから認識した層は単純に若年層が多いから、ここら辺のネットミーム(syamu、野獣先輩、ommc姉貴、はてなようせい等)を知っている上でそれがどう倫理的に問題があるか認識できてない人が多いままに集合知になっているのではないでしょうか。

 

春とヒコーキの2人は年齢的(平成初期生まれ)、
文化領域的(ネットカルチャーを知ってるけど、ぐんぴぃさんは北九州の治安悪いとこ育ち、土岡さんは実家が太めの元ニート
な部分に置いてちょうど狭間みたいなポイントに収まっているので、
そのセンシティブさと面白さが危うさも含めて絶妙なバランスになっているんだと思います。

 

いつか炎上しそうだけど、本人たちもそれを把握してて、意外とギリギリの綱渡りがショーになっているチャンネルだと感じています。

 

ただ、今インターネットの時代でその要素が皆無のコンテンツも存在しないと思いますので(この記事すら)、そういう意味ではある種の王道的な面白さを提供しているのだと思います。

 

バキ童というYouTuber

 

ぐんぴぃさんもとい春とヒコーキのことを芸人さんだと思っているので、ここではあえてYouTuberとして捉えて語ってみようと思うのですが、

 

その「芸人」「YouTuber」という論争(?)的なものも もはや特に機能していないというか、見ている側からすると本質的な違いはあまりないと感じていますし、それがもっと精神的ヤンキー性が高いようなニュアンスの地点だとVS構造にしてみる事それ自体にパフォーマンス性、ゲーム性が発生してエンタメとして立脚するのかもしれませんが、春とヒコーキがいる地点はそういう雰囲気とは現時点では異なると思います。なので全体的にはあまり気になってない要素なのですが、

 

ただ芸能はイメージ商売でもありますから、だからこそそういった二元論を漠然と取り入れて活用しているような器用さも実際感触としてはあるのかもと見てて思っていたりします。

例えば

 

 

 

 

 

春とヒコーキが、ここら辺の「青学落研」「大学お笑い」「関東地下ライブ」関係の横の繋がりを最近割と前面に出していってる感じがします(単純に同期が皆売れ出してきたのだとも思いますが)。
ラランドとのコラボでも言及されていますが、初期は

 

「バキ童現象主軸のアダルトコンテンツ系のコラボ企画(しみけんさんとトークしたり)」がメインだったけど、それを

 

「ネットの下ネタ→ニコ動や2ちゃんねるカルチャー」にスライドさせてゆき、

 

「同世代に伝わるネットのおもちゃやフリー素材的な有名人とのコラボ(幸せならOKです、チャリできた)」→

 

「そのノリが伝わる同期芸人や青学落研時代の仲間をチャンネルに登場させる」→

 

「すでにタレントとして売れてたり賞レースで結果を出してる大学お笑い出身芸人(お笑い系トーク企画メイン)」

 

に少しずつ活動の軸足をお笑い芸人のメインストリートに移動させてるのが分かります。

 

そして、上記の動画でサーヤさんが指摘していましたが

 

そういう経営的な戦略脳は意外とぐんぴぃさんが担ってる

(ネタ書く側じゃないのに。元BOOK OFFの店長で売り上げNo.1だったから?)

 

という要素が春とヒコーキの侮れないしたたかさと面白さだと思います。

 

 

 

本当に芸人としてのアイデンティティを大事にしているとも強く感じるし、

だからこそ同時にそのためにYouTubeに力を入れているという

人前に出る自意識という面で見てみても、ネットミームである自分を自分でネタにするような二面性的な構造を感じています。

 

それが巧妙で論理的というよりも

素でこういうロジカルな思慮深さを発揮出来てしまえる天然性をむしろ覚えたりします。

 

 

バキ童というマスキュリニティ

 

ぐんぴぃさんのバキ童としての構成要素には「ネットミーム」「YouTuber」という部分以外に「童貞」という要素が占める印象の割合は大きいです。(バキ童でバズってるからそりゃそうなのですが)

 

このシンプル過ぎる正面突破のセンシティブさが人々の心を掴んだからこそ圧倒的に話題になったわけですが、あまりにその言葉の持つインパクト、風貌のパブリックイメージジャスト感、AbemaTVが扱うニュースとしての引きの強さ、などによって音MAD素材的な擦られ方にのみ留まっていて、実際に社会問題化してる内容の深刻さまではバキ童というアイコンを通してはそこまでは当時触れられていなかったと記憶しています。

 

のちにピーター博士と知り合い、本人がそういった性への学術的知見含めてコンテンツ化し始めたところから徐々にそれらも語られだしてNHK性教育番組に出演するにまで至っていますが、ぐんぴぃさんを通して観衆が批評的に性そのものを語っているコンテンツはあまり見たことがない気がします。

 

 

もちろんそれが「童貞」という状態を指す言葉とともなっているので、それを今後もネタにしていくかどうか含めて自己申告性が伴う代物です。なのでドキュメントとして見ることができるようにもしてるけど演出性も入っているのはエンタメとして提供されているのは当然だとして、それが非常に繊細なグラデーションで描かれているとも思っています。

 

ぐんぴぃさんが今までの「モテない」キャラ的なものと一線を画す点はそこにあると感じていて、例えば今の春とヒコーキと当時同じぐらいの知名度だとした場合の南海キャンディーズの山里さんやアンガールズ田中さんやハライチの澤部さんも似たようなキャラ造形をかつてはしていたと思いますが、ここまで象徴的に性経験の有無そのものをネタ化させてはいなかったと思います。あくまでキャラとして表面的に笑いにする事はあっても「童貞」そのものをここまで全面に押し出すのは童貞を公言していた澤部さんですら行ってなかったキャラ演出です。というか単純に年齢的にもここまで長く興味を持続させていないです。

 

上記の「モテない」キャラ的なものと根本的な需要が異なっているとも思います。

逆に言えば、少子化問題的なものが進んでいるからこそその深刻さも含めて観衆に童貞キャラが受け入れられているためにこの持久走の距離が伸びてしまっているのかもしれません。

仕組みがアイドルの恋愛禁止ビジネスと偶発的に似ちゃっていると思います。

 

 

アイコン化するからこそ降りづらい空気(もしくはそういう衆人監視的な意識によって形成される本人の意思)が耕されているのだとしたらと思うと勝手ながらいささか怖くもありますが、それは結果として現代的な男性性のあり方に関して問われているコミュニケーションの問題と重なってしまっているようにも感じます。

そういった潜在的な同時代の葛藤をドキュメントとしてもモキュメントとしても体現できてしまっているからこその注目度と、その着ぐるみのチャックの隙間から見える内側の人間的魅力が人々の視線を集めてやまないのかもしれません。

 

 

それらの観点含めて視聴者側からもバキ童というコンテンツがもっと語られているものが見てみたいと思っています。

今見渡してみた時にこれとか面白かったです。

 

 

バキ童を視聴者視点で享受する事、なぜここまで人気なのか?、テレビメディアとYouTubeの境目、従来の男性像から切り離されたキャラクターが女性視聴者にウケているという現象、バキ童チャンネルのターゲット層じゃない男性、バキ童を好きだと公言することで発生する評価経済的なイメージ変動、マスキュリニティから見るぐんぴぃ、ネットリテラシーの高さとネットミームをお笑いに絡める事、など

批評的な内容を非常にざっくばらんに男女で語ってて良かったです。

 

バキ童論の中でファンダムと客観視(社会性、メディア論、ジャンダー的な観点含む)のバランスが一番均一的だと個人的に感じました。

 

 

ここら辺の話(ネットの表層と深層がグラデーション的に一緒くたにされながらオールドメディアやパブリックな領域との橋渡し役を余儀なくされ、それによって存在が大きくなってゆく現象)が、水面下だけではない地点でも目立ってきてる印象。

 

 

 

 

バキ童というコミニティ

 

バキ童というコンテンツの一番奥行きがあって親近性が高いゾーンが、ぐんぴぃさんを起点にコミニティとしても機能しながらそれをある程度包み隠さず公開して連鎖的にドキュメンタリー化させている部分だと思います。

 

バキ童チャンネルではお馴染みレンタルぶさいくさんが激レアさんに出た時に特にその連鎖リアリティショーの濃淡があったと感じています。
Abematvでは、かつてレンタルなんもしない人に便乗してアベプラに取り上げられたり、フィリピンから帰国後YouTubeを始めたあたりでななにー新しい地図で元SMAPの三人と共演したり確実にメディア出演で爪痕を残してきた形ですが、そのまま地上波進出まで果たしてしまいました。

レンタルぶさいくで活動し始めた辺りの動画を今改めて見ると感慨深いです。

 

そのレンタルぶさいくさんがぐんぴぃさんと共に在籍してた、ガクヅケ木田さんを中心としたキモシェアハウスも最近地上波に取り上げられていたり、春とヒコーキ自体も有吉の壁やあちこちオードリーなどの番組に出演したりと、ぐんぴぃさんがずっとコンテンツ化させていた自身の周辺コミニティが「バキ童」というファンダムを通さず(経由はしてるけど地上波テレビではそこをメインに押し出さずに)一段広めのステージに躍り出ている瞬間がそれぞれ目立ってきてて面白いです。

 

上記の項目で話したラランドとの動画などよりもさらに深く潜った「裏大学お笑い」とでも呼べるような、同属性の集団丸ごと関係性をショーにしてファンダムを形成しそれで局所的に市民権を得たまま有名になってゆくという、かつてのコイルショックのようなインターネット悪ふざけ芸をまざまざと見せつけられてるようで、今まさに売れてゆくルートに入りかけの見てて一番面白い時期になってると思います。

 

 

 

 

 

 

そういったコミニティそのもののショーアップ化、連鎖ドキュメンタリー性って

例えば、それに一番連動してるのは隣にいる相方 土岡さんを見ると理解しやすいと思います。

ぐんぴぃさんがバキ童でバズったことにより土岡さんの元ニートである側面の打ち出しが強まった感はあると思います。

 

パーソナルな部分の提示はタレントとして売れてゆく行為として必須ではありますが、それがぐんぴぃさんの「童貞」という要素に連鎖する形で始まっているので、それに伴ってよりプライベーティブな側面の打ち出しを求められる事と、逆にぐんぴぃさんがその震源地から動けないのでカラー的にその周辺が別側面を請け負って担ってる形状にもなっているとも感じます。

 

 

 

ひとつ象徴的な事例として

バキ童チャンネルではお馴染み
土岡さんのうまトマハンバーグ好き動画が
松屋の公式に引用RPされていた事とかも注目して見ると面白いかもしれません。

 

春とヒコーキがKOC準決勝進出を果たし、
ぐんぴぃさんのネット上での人気、映画の主演をつとめるなど、大衆領域であるテレビ芸能界的にもそろそろ存在を無視できない雰囲気になってはきています。

 

 

 

と同時に、地上波スポンサー的にはその番組や企業の色などが事情としてあるのでしょうが、「バキバキ童貞」というキャラクターはやはり今の時代のコンプライアンス的意識を差し引いて見たとしても、女性や子供が視聴する可能性のあるコンテンツやイメージタレントとして、組織のトップが苦言を呈するのは想像がつくではあります。
(というか、世代的にインターネットというだけでピンとこない層がまだまだ全然多いのだとは思います なので余計に表層的な印象に留まるために弾かれてしまうんじゃないかなと感じます)

 

なのでなのか、そういうポイントで見た時の
「土岡さんがうまトマハンバーグ好き」だという要素は、
エアポケット的にその“バキバキ童貞外”という周辺存在として、健康でクリーンなブランド形成を目指している食べ物ジャンルのコマーシャルに触れていってるのは知名度的に必然だと思うし、単純に土岡さんがうまトマ好き過ぎる異常さが面白いというのがまずありますが、それを偶発的になのか意識的になのかサイコパスキャラ的なニュアンスを微妙に絡めたまま担わせて定期的に動画を上げてるところを見るに春とヒコーキというコンビの大衆化への足掛かりとしてかなり面白い階段の登り方にも感じました。
(※ちなみに、ぐんぴぃさんはずっとラーメン二郎を推してて動画を上げています。こっちはこっちで同じ食べものというジャンルだけど完全に男臭く、ストレートに健康な感じとは違って、やっぱりニッチさがあるのが面白いです。)

 

ここら辺の断層的なパーソナルの打ち出しが周辺からジワジワと広がってゆくニュアンス。半分意識的、半分自然体な状態として、バキ童というコミニティがプラットフォーム化している点として見ても非常に面白いと思います。

 

今ぐんぴぃさんはネットスターとしてギリギリ大衆領域の縁側を歩きながらも、
相方である土岡さんや
シェアハウスで共に過ごしていたレンタルぶさいくさんやガクヅケ木田さん、
アダルトコンテンツ企画で人気を博していたリップグリップ岩永さん、
作家としてチャンネルに関わってる8月22日の彼女のFANさんなど、
バキ童チャンネルでは顔馴染みで準レギュラー的立ち位置になっている出演者、ぐんぴぃさん周辺の人々たち、そういった方々も個人チャンネルを立ち上げていたり、スポット的に地上波テレビ出演を果たしていたりしていて、「バキ童」というプラットフォームから、その中心で広大な磁場を維持しながらある領域までしか拡張できないぐんぴぃさんの代わりに、派生した構成人物がそれぞれ別々のやり方で領土拡大を地道に耕しているようにも感じられて、今後どのように「バキ童の一味」がもう一段有名になっていくのか楽しみで面白いです。





 

 

バキ童という現象

バキ童を構成する要素について様々考えてみましたが、結局そういったあらゆる側面が重なり合って促進される共感性とそれによって引き起こる議論的な現象がインターネットと相性が良いのだろうなと思います。

 

ネットミームを知ってる、知らない

芸人なのか、YouTuberなのか

童貞的なマインド、非童貞的なマインド

コミニティ内のノリ、コミニティ外からの視線

 

それらのいろんな角度からの多層的に重なった要素が二項胴体となって親近感のグラデーションを育み続けているのではないでしょうか。

 

少し前にバキ童論争的なものがまたもX上で起きていました。


「オタク」という点に絞られて語られている感じでした。
ぐんぴぃさん(春とヒコーキ)が本格的に芸人として売れてきて、「反発派も目立ってきた」「持たざるものだと思ってたのに問題」などと捉える事もできますが、

ぐんぴぃさんの持っているカードがよりマイノリティ的、サブカルチャー的、インターネットユーザー的な領域のちょうど狭間の属性や年代だったりするので、この論争自体は一筋縄では行かなそうだと感じています。

 

 

 

 

個人的には、こういった二元論で何かを考える事自体をネット空間で行う事に限界はあるし、なにか雰囲気的結論に着地したとしてもそれそのものに対して僕自身は強い興味が湧かないような気がしています。

 

ぐんぴぃさんが童貞じゃなくなったとしても、別にそれを発表しなくて良いと思ってるくらいです。

なんなら、「実は最初から童貞じゃなかったんだ」と言いだしても別にいいと思っています。

 

というか、やはり

「有無の確認が確実に出来るものではない」から、そもそも僕らの見ているバキ童という偶像は実態がないのです。

 

バキ童じゃなくて、お笑い芸人ぐんぴぃを見ているのです。

 

そして、そのぐんぴぃさんという存在すら芸人としての名前であり中心部分はファンタジーです。本当に何を考えているかは山口大樹さん本人しか知る事ができません。

 

バキ童という現象は、そういう共同幻想の中から生まれた童貞の具現化存在であるぐんぴぃさんを中心に、観衆がそれぞれ自己対話を成す形で膨らんでゆく議論という名の社会的な集団モラトリアムなのかもしれません。


こういった議論を常に生みながら、この渦がどんどん大きくなって、バキ童という現象と共に春とヒコーキが芸人としてもっと売れていってほしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

(文 : 視力)

linktr.ee

KILLAH KUTS

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KILLAH KUTSを観る | Prime Video

 

藤井健太郎の『KILLAH KUTS』を見ました。

面白かったです。

 

以下、ネタバレ感想

 

『KILLAH KUTS』感想

 

スポーツスタンガン

シューゴさんとみちおさんがスタンガン落として絶望するシーン(特にみなみかわさんが二刀流になって責めてくところの怖さ)、
山根さんと谷さんがしんいちさんを2VS1で責めるところ、
あとフィジカル面で突出してたわけじゃない大崎さんが一番姑息な手を使ってブーイングを浴びながらヒール的に優勝しちゃう事自体、とかのシーンが面白かったです。

 

設楽と暴力

設楽さんが久々にサディスティックバラエティ企画に参加するという事でバナナマンフリークを中心に話題になっています。

その話題の中で言及されてた
バナナマンが過去やっていた「スタンガンを使った笑い」(それがあったから設楽起用なんじゃないか?説)は、おそらく2006年頃に開催された単独ライブkurukuru birdでの幕間映像「スタンガン3つの検証」から来てるんじゃないかなと思います(あとそれ以前からも幕間でスタンガンを使った映像を流してるそう)

 

 

あと、2011年emerald musicという公演でスタンガンを使ったコントも披露しています

 

あと、
スタンガンではないですが2003年頃epoch TV squareというBSフジの番組のDVD発売イベントか何かで行われたネタで、
設楽さんが"鞭"を持って「小木さん、矢作さん、日村さんの中で誰がこの鞭で叩かれるべきか」言い争わさせるというコントがあったというレポートを当時の書き起こしブログで見た記憶があります

 

他にも設楽×武器(それを体罰行使する権限)がある企画やネタはいっぱいあると思うので、ぜひ思い出したらぜひコメント欄とかに貼って下さいませ。

改めて設楽さんのドSキャラ的なもの、それが特異的だと思うのは、

「イニシアチブ(精神的優位性)」と
「バイオレンス(物理的暴力性)」が

両輪合わさってるところだと感じています。

例えば
インターネット、SNSの浸透で定番化したレスバトル的な言語的支配に特化したタイプのタレントだと西村博之呂布カルマ、あとテレビタレントだと田村淳や有吉弘行岩井勇気などのドッキリを仕掛けるマインドコントロール性や建設的議論とは若干毛色の違った単純なトークプロレスの強さなど、そういう「イニシアチブ」特化型での強いタイプは多々居るし、

逆に
シンプルに手が出るんじゃないかというフィジカル面での怖さ、その威圧感によって場を支配する浜田雅功石橋貴明島田紳助、ヒロミ、加藤浩次などの前時代的なテレビ芸能界に君臨してたタイプ、いわゆるロジカリストとは異なる原理で空間統制を成してたボス的な空気を纏った「バイオレンス」な面々は今のコンプライアンス全盛期で活躍するには場が限定されてゆく気がしますし、

そんな中でバナナマン設楽統という人は、そのどちらにも大きく針を振っていない代わりに「暴論」と「暴力」がどちらも許されてる、という狭間の中心に立っている絶妙なポジションに居続けてるなと思います。

 

 

もっと細かいニュアンスの話になりますが、

藤井さんは論理的思考や批評的な視点、建設的議論みたいなものを積み上げた結果、「暴力」「反倫理」的な面白さに辿り着いてる感触があるのですが、

設楽さんはむしろスタートが「日村さんがスタンガンで痺れてる姿を見てみたい」という発想と即効的なフットワークの軽さがあって、その時に威圧感や論理的思考を手探りで手に入れていってる即興芸な気がします。

つまり順序が逆で
設楽さんは暴力のあとに論理が入ってきて暴論を可能にさせてる感じな気がします
「この人ほんとにビンタするからなぁ…」という実績(?)が過去にあるから暴論が成立してるし、それによって周囲は設楽さんをロジカルだと思い込む原理が働いてる。

 

そんな設楽さんと藤井さんが組み合わさった事でこの企画が実現し、ビリビリとした刺激が電流の如くほと走っていました。

 

麻薬ダイイングメッセージ

自分が視聴したタイミングが配信再会後だったので、カットされた該当箇所見れなかったです。
でもそれを差し引いても面白かったです。

それぞれの芸人さんの意識が途絶える瞬間の淵で格闘している様は見応えが凄まじかったです。

伊集院光さんの解説も慎重にバランスを取りながら繊細な言語補填に職人の技を見ました。

 

以下、SNSでの様々な反応

 

 

ラランドニシダ昏睡ゴシップ

 

 

 

 


日本麻酔科学会

 

 

 

政治信条レース

こちらもシンプルながら面白かったです。

というか、気にせず見たら普通のロケでのゲームバラエティ番組として楽しめちゃう。

ただ、そこに見る側が勝手に何かを見出そうとすると、それがうっすら表出してくるという底意地の悪いお笑いが展開されてました。

なので「過激な事を言う」系の面白さではなく、世相や時事を皮肉ってるとかではなく、もっと言うと冷笑的なそれとも微妙に違う、“すごく高度化された素人いじり”みたいな企画だったと思います。


河元さんが「日本バンザーイ」って言うところ、
岸さんが高野さんにちょっとキレてるシーンをなぜかカットせず流してたところ、
カズレーザーさんの「白シャツに赤丸入れて日の丸にしましょう」「黒い服着てるのに右じゃないんだ、赤とかじゃないんだ」「左寄りの大学とかあれば学生に聞けば一発なんだけどな」「麻生太郎みてぇ、右だろ」「中央区入ってきたら右が多いんじゃねぇの」「(政治心情を話してる一般人に対して)よく喋るな」「ここは右絶対引かなきゃだから街宣車来るまで待ってた方が」「左利きなのに右なんだ」「アメリカ人なんて愛国心の塊だろ」とかのコメントが面白かったです。

 




童貞人狼

童貞人狼ももちろん面白かったです。

ただ、ぐんぴいさんとかがYouTubeでやってたりするので、これはこの規模感でやるならという事だなと思いました。

 

性的なネタの中でも、特に「童貞いじり」って、ここ数年で急速にセンシティブ化して地上波では取り扱いにくくなってるんだろうなと、なんとなく感じているのですが、だからこそそのジャンルの面白さの間口はネット上という水面下だとむしろ境界ギリギリまで裾野が広がっちゃってる気もします。

 

かつてはもっと明確な差別性みたいなものが笑いの中に含まれながら対象への蔑視、嘲笑、暴力性などが広い場所でも展開されていたと思います。

 

そこら辺のある種のノイズになりそうな今のバラエティトーク内でのいじりの矛先はかなり除去されていたとも見てて感じたりしました。

MC側のさらば青春の光も、童貞側の芸人さんも。

(と同時にそれはそこに当事者性意識の薄さがあるから成立しているものだとも思いますので、それを「透明化」だとも言えてはしまう。)

 

個人的には、割とすぐ人狼はこの人なんじゃないかな…?となんとなく思いながら見ててそれが当たっちゃってたので、もし次回もこの企画があるなら「もっとどっちか分からない」状態になりながら見たいなと思いました。

 

また、佐久間さんのYouTubeにも似た企画があって、そちらとも比較されてる方もチラホラいました。

 

以下、藤井さん単体に焦点を当ててみて、他製作者や過去の作品などを引き合いに出して、どういう面白さなのか考えてみようと思います。

 

 

藤井健太郎というプロデューサー

佐久間宣行との違い

佐久間さんと藤井さんの企画の構造って、ものによっては視聴者が「似てる」と反応する事もけっこう少なくないと感じています。

例えば、近年のヒット作「名探偵津田」は放送後、割と「ゴッドタンっぽい」という感想があったと記憶しています。

 

似たような構造で、
佐久間さんが即興劇を膨らませてゆくのに対して、
藤井健太郎さんは物語上の仕掛け部分を研ぎ澄ませてゆく方向に行ってる、
その違いが興味深いです。

 

 

佐久間さんはドッキリという"てい"(コント)で芸人が如何にノれるか、フザけられるか、という芸人への理解度が高いM的なプロデューサーだと思うのですが、

藤井さんはドッキリはドッキリであって、その企画の構造はちゃんと騙したり驚かしたりする事を目的とした上で「ドッキリとして"球種が変"」という部分で見る側を引っ張ってゆくのでかなり批評作家的な意識とその遂行のために芸人(の心理)はある程度駒であるというSっぽいプロデューサーなんだと感じています。

 

初期の頃からゴッドタンを見てると、なんとなくそのニュアンスって掴めると思うのですが、もう出演者も番組もあと佐久間さんも存在が大きくなってしまってるので、なかなかそのノリって視聴者と共有するのが難しくなってきている感はある気はします。

ゴッドタン初期のヒット企画に「おっぱい見せて」というシリーズがあります。

"「見せるわけない」という大前提"という部分を踏まえて、そのていで即興コントを見せられているという楽しみ方が佐久間さんの番組のメイン商品といった感じだと思います。
基本的に上記のブログの方みたいな目線の人から常連になってゆく傾向が佐久間さんの番組構造にはあると思います。

 

それらをまとめてゆくと、ある種「演者への追い込み」という点では、藤井健太郎さんやマッコイ斎藤さん、片岡飛鳥さんや土屋俊夫さん、テリー伊藤さんや田原総一郎さんとかよりも、一番内省に迫ってるタイプに感じています。

上記の人々はパフォーマンスも含めて倫理観を飛び越えることをショーにしててその上で「悪者役」をプロデューサーとしてある程度背負うムーブがあると感じます(あくまでムーブ、実際背負えているかは別)

ただ、佐久間さんはそうではないし、なんなら見てる側に「追い込んでいる」という認識すら与えていないところがあると思います(なので大衆が数で個人を追い詰めるという現象にはなりにくいではあると思う、でも密室的、内省的だからこそ濃密だし精神的な逃げ道が少なくなりがちではと感じます)

すっごい端的で雑に言うと
あちこちオードリー的なバラエティは、
「メンタルケア、カウンセリングショー」になってはいると言えちゃう。

(若林さんが中心で奉仕してる状態でもあるし、セーフティスポットして春日さんのポジションも存在してるけど)

若林さんの話運びははコーチングスキルと呼べてしまうとは思います。

 

寄り添ってはいるけど、それをショーにはしてる。

傷を癒しながら、その縫った傷口を開いて皆に見せてる。

心を開かせて、裸を商品にさせている。

 

とも言える面白さ。

 

藤井健太郎さんの追い込み方はそういう方向ではありません。

もっとなんというか、佐久間さんのそれより「実験」的な要素、単純に興味が強い感じがします。

非人道的ではあるが、だからこそ完全に本音を覆い隠したクロちゃんみたいな振る舞いで成立させることが出来しまう、その「現象」を「結果」として面白がる感じなのかなと思っています。

 

こちらは、水曜日のダウンタウンおぼんこぼん解散ドッキリの書き起こし感想ブログです。
佐久間さんの番組のように前提を踏まえてるというよりも、本当に「解散するかしないか」的なドキュメンタリー性で見ている人が多いんだと思います。

ただ、お笑い好きや見る人が見たら「これはドッキリであるという前提を芸人が踏まえた上でどう落とすか迷っている」のもうっすら感じられるようなギリギリのライン(だからこそ一周回ってドキュメンタリーにもなってる)という感じだと思います。

 

これがめちゃイケとか、電波少年とかにまでなってくると、「ドッキリだという事がかなりバレバレ」だとか「本当に無理難題を芸人に吹っかけてドキュメンタリー性のみで引っ張る」みたいな地点に到達してゆくのだと感じます。

なので
藤井健太郎さんの番組は
「佐久間さんの前提共有コント」と、
めちゃイケ電波少年とかのお笑い芸人主軸のドキュメンタリー」の、

ちょうど間くらいの領域を紡いでいると感じています。

 

 

↑これとかがそのちょうど間くらいの領域、初期の水ダウで話題になったやつの象徴的メタ視点だと思います。

ナレーションの「やはり構造部分にはツッコまない」という台詞が面白いです。

「(スケール的に)そんなわけない」という面白さ

「スケール的にそんなわけない」という視点のツッコミを用いれられるのは藤井さんの番組が一番持ってる特徴かもしれないですね。

佐久間さんはどうしても狭い地点に向かう(その代わりにその世界観周辺のセットやゲスト部分が膨らんでキス我慢movieやマジ歌選手権In武道館みたいになってゆく)

めちゃイケ電波少年はそもそもスケールが大きい事を芸人に吹っ掛ける(濱口ドッキリ○百日とか、猿岩石のヒッチハイクとか、その中での演じきりやドキュメンタリー性を見せてる)

名探偵津田や、クロちゃんドッキリシリーズ、おぼんこぼん解散ドッキリなどは、そもそも「そんな事すんなよ」という視点設計を土台にドッキリを仕掛けられてる芸人が分かりながら乗っかりつつ進んでゆく(視聴者もその芸人のスタンスを半分くらい理解しながら見ている)ので、笑わせてる箇所がめちゃくちゃメタ部分だと思います。

 

 

メタ的な箇所の確認として、タイトルに悪意が入ってるものが多いです。

それってバラエティ番組としてめちゃくちゃ"自己批評"的だと思います

あんまりテレビプロデューサーに居ないタイプだと感じています。

似たようなタイプって
フェイクドキュメンタリーを撮ってる時のマッコイ斎藤さんぐらいなんじゃないなかぁと感じています。

 

マッコイ斉藤との違い

マッコイさんもかなりメタ視点的なバラエティを作っていると思います。

 

 

これとか、たしかマッコイさんの番組で、毒舌前の有吉さんがけっこう過酷なロケやらされてたはずなんですが、

その企画構造が
藤井さんの「ラリアット不回避説」とかと似てると思うので、領域的に重なってるとこはありそうです。

 

ただ、マッコイさんは藤井さん程ロジカルさに執着してない気がします。

 

マッコイさんは視点設計的には「そんなわけないだろ」だけど、それがシンプルであとは芸人さんに丸投げって感じだから、

藤井さんの技法でめちゃイケ的なドキュメンタリー構造を作ろうとしてるって感じのバランスな気がします。

藤井さんが構造に対して理由や文脈をきちんと用意して固めてゆくのに対して、

逆に、マッコイさんの有吉を訴えるシリーズとかってただただ有吉さん一行がおっパブで戯れてたり、ラストシーンで飛躍していったり、無駄なカットや説明のない笑いがいっぱいあってそれが面白いです。

と、同時にそれが10年経ってTikTokとかに切り取られて「ぇ、有吉サイテー」ってコメントされて拡散とかされてて、有吉さん本人がラジオで注意するみたいな事がありました。
それもちょっとめちゃイケ電波少年的な、ある程度本気として受け取る成分の高い視聴者層とも隣接してて、
時代的に、藤井さんのように論理性を打ち出さないと炎上とも隣り合わせな面白さなんだろうなと感じます

名探偵津田も、「トリックとして雑だ」みたいな本気っぽい呟きがいくつかあった気がします。それにも藤井さんが先読みして弁明っぽい呟きをしていました。

 

 

そして、それは先読みのロジカルさが面白さに根ざされている事も意味してると思います。

そうなってくると「炎上避け」的な部分のパフォーマンスが商品価値として目立ってきがちになる気もしています。

論理で倫理をハックしているような。

 

その分かりやすい事例ひとつにエッグ矢沢さんとの件があると思います。

 

エッグ矢沢という事例

少し前に「水曜日のダウンタウン」ではなく「クイズ☆タレント名鑑」の情報原人という企画に参加していたエッグ矢沢さんのnoteが話題となっていました。

 

①〜③は有料

 

情報源人の件はなんか当時からけっこうグダグダな感じで後ろ向きな方向でネット上で少し話題になってた印象と、その後エッグ矢沢さんは単身でYouTuber的な活動にどんどん主軸を移して(移さざるを得なかったのかも?)そこでデカキンさんとかと初期段階でコラボしててHIKAKINさんがバズった流れでエッグさんもその余波で若干インフルエンサー化が促進したという、タレント名鑑とは別文脈で影響力を高めた形になってて「タフな人だなぁ」とぼんやり思ったのを覚えています。

このnoteの熱量でどんどん読ませる感じが単純にエンタメ的な読み物として面白かったし、最後らへんの結びは半分リアルな感情、半分お笑い的なコンテンツに出来たらいいなぁという葛藤、が混ぜこぜになってたような感じで、三ちゃん視点からのめちゃイケの話のような、

虚実妄言入り乱れドキュメントバラエティという感じになってるように思えました。

電波少年でのなすびさんからの流れ(もっと時代の空気的な流れで言うと、松本人志と文春裁判や、ジャニー喜多川性加害報道、さらに言うとガーシー議員や旧統一教会問題などとかも絡められてしまうような、メディアや権威機関に対する個人や周囲から告発によって影響がある海外からの見られ方という図式)でエッグ矢沢さんも良くも悪くも乗っかって書いてるんだろうな感じます。

 

そして、実際どうだったのかは分からないけれど、藤井さん側の視点に立つと

情報源人的な企画の面白さとして、こういう組み立て方になったんだろうなぁ…

という事情というか、思考の経路もそこはかとなく感じられます。

エッグ矢沢さんがこれを耐え続けないといけなかったとは思いませんが、この面白さを形にしようとした場合こういう実験遊びみたいな方法以外でどう構築すればいいのでしょうか?

このやり方のもっと安全性を考えられた形が、ななまがりの「新元号当てるまで脱出できない生活」というギャラクシー賞月間賞を獲った企画にも繋がっている気がします。

そう考えるとと、この企画趣旨の面白さは、ある程度「監禁」する事とセットであるのだろうし、その上でそれを成立させるための理由、言語的な補填、観衆の納得感を取り入れなければいけなくなるのだと思います。

それは(あくまでこういう企画がですが)結果、「炎上」的な拒絶反応にいかに近付き、そうならないか、が面白さそのものと肉薄、いや一体となってデカい塊になるようなイメージになります。

『KILLAH KUTS』という番組もその例外ではありません。

 

 

藤井健太郎さん的はこの件って、今後もスルーするような気もするし、
もしかしたらそれも含めてネタにしようと何かの番組で取り上げる可能性もゼロじゃない気がするし、

ただ個人的に感じるのは
藤井健太郎的な露悪と文脈理解バラエティ的なものって、ロンブー淳さんや有吉さんとか主にそういう裏笑い的な要素を顧客としても獲得できてる芸人さんが中心になって作られているので、たぶんクロちゃんとかがポップ層としてはギリギリで、
ダウンタウンがそこに居るのは、もう大御所として完全に売れきって冠として座っているから成立しているのであって、若手の頃の松本人志藤井健太郎さんの笑いがハマってたのか考えると微妙な気がするし、そこも意識してトレースしていった(お互いに)のだとも感じるのですが、

エッグ矢沢さんの芸風って、たぶんどちらかと言うと上記しためちゃイケ寄りのキャラ軸だと今となっては感じるしYouTuber的な領域と相性が良かったのもそういう理由なんじゃないかなと思うし、何より今回の半分告発半分プロレスみたいなnoteそれ自体がテレビ演出的な思考回路からなる振る舞いのようにも感じます(本当に経験としてはキツかったんだとも思うけど)

それ自体が藤井健太郎さんの世界観のストライクゾーンからはやや外れているとは思うし、ただそういう領域のお笑いも、凄い俯瞰的に構造的に裏笑いと表笑いをどちらも成立するようなバランスとして仕上げている「おぼんこぼん解散シリーズ」的な企画もあるので、そういうような拾い上げ方をするかもと少し思ったりしたい気持ちもあります。
ただだとしても今じゃないのかもしれないけど。

だからと言って隔離実験的なことを素人が知識なく安全じゃない形で行っていたかもしれないという話に関して、どう捉えるべきかという部分は絶対的にあるのだとは思います(スルーするのか、これ以上話題として大きくなってゆくのか、もっと言えばエッグ矢沢さん自体がこの件の整合性が取れなくなったり単純に飽きたり別の形で売れちゃったり、思ってた部分とは異なる展開にコンテンツ化されちゃう事などなども含めて)

 

あと、

ここ最近だと「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場あっても従わざるを得ない説」も象徴的な事例だと思います。

 

倫理と論理とバラエティ

水曜日のダウンタウンで行われた「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場あっても従わざるを得ない説」は、かなり賛否があって未だにその火種は尾を引いている状態だと思います。

 

コチラは、藤井さんの得意とするメタバラエティの矛先が芸人だけではなく視聴者に向いてる形になってもいて、これを放送したらある程度こういう反応になるのは見越していた上での企画だったと考えられます。(謝罪コメントをすると見せかけて全然違う事をポストするというボケを用意してるから)

 

SNSの賛否反応どちらに対しても距離があると言うか、そもそも炎上避けどころか明確に燃やしに行って、でもその燃え上がりに対して反応しない、みたいなスタンス。

実際、これを炎上的なものだと捉えるのなら無視したところで、番組が続こうが藤井さんの立場がどうなろうが、世間のコロナに対する理解が上がろうが下がろうが、これを見て悲しむ人がいようがいまいが、観衆という領域の反応は一時的なものだとは思うので、発し手側が気にならないのであれば、究極炎上という現象そのものへは気にしなくていいのかもしれません。

 

ただ、その上で“それを理解してこれを行った事”という部分が重要だとは思います。

炎上がどうこうというより、観衆の反応がどうこうというより、もっと言えばこの話の本質的にはコロナ対策に対しての無知やそれを風潮的に流布してる事になるメディアとしてのマス的な自覚の欠落というよりも、それら全部を踏まえた上でこれを行ったという「メタ的な視点そのものへのメタ構造」が、なにかを面白がる事として行ききってるなとは思いました。

それへの賛否は個人的にはここで語りませんが、

それを突き詰めて行くと、原始段階では純粋な興味本位だったものが、常識や倫理の突破をどうしても経由する機会が多くなるので、やはりその突破が面白さと混濁して「過激だから面白い」的な感覚に接触していきがちではあるんだろうなと感じています。

 

『KILLAH KUTS』という番組の企画は全部そういう面白さを内包しています。

 

 

以下、「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場あっても従わざるを得ない説」放送前後のSNSの反応

 

 

 

 

 







 

これらの反応が沸き起こるより前に、藤井さんはこういう呟きもしていました。

 



 

僕のこの感想も存在していないのかもしれません。

『KILLAH KUTS』面白かったです。第二段ぜひ見たいです。

 

 

 

内村プロデュース復活SP

 

見ました!
あの頃の内Pという感じで見てて懐かしくなりました
内村さん、さまぁ〜ず、TIM、ふかわさん、出川さん等のレギュラー的なメンバーはあの頃ままという感じで、
有吉さん、有田さん、土田さん、バナナマンおぎやはぎ、等の準レギュラー的な人達は、芸能界での立ち位置とか芸風が微妙に変わってたりして、そこも面白かったです。

 

 

今の若手芸人が内Pに参加して悪戦苦闘する姿も良かったです。
内Pのフォーマットってお笑いの王道のようでいて、でも今のバラエティ様式からは若干ズレてる独自のノリとシステムだったんだなぁ…と思いました。

 

 

一番似てるのは「有吉の壁」だけど、

 

それよりは即興性とかグダグダ感、宴会芸的な雰囲気を楽しむものだし、


逆に遡ってみると内Pより前にダウンタウンのごっつええ感じとかでやってた「ボケましょう」のフォーマット的なものを受け継いでる形式だと思うのですが、

 

 

それと比較するとその源流である松本人志周辺のシチュエーション大喜利系の企画ってもっと発想重視で、基本的には個々の闘いで内Pほどチームワーク感はなかったと思います。(東野さんがふかわさんポジションでオチとしていじられがちだったぐらい。)

 

 

この2000年代初頭の言うなれば深夜番組のチープさと、でもまだテレビが強かった時代で今はもはや豪華メンバーでベテランになってる当時の若手芸人たちの勢いをそのまま流してたある種の贅沢さが相まってこの雰囲気になってる気がします。
なんかこの感じってむしろ、関テレとかのノリに近いのかもしれません。

 


今ちゃんの「実は…」とか、「マルコポロリ」とか
芸人たちの楽屋話をそのまま流してる感じと言うか、


そして

それを受け止める内村さんの人柄によって
こういう、ちょっとおじさんの青春的な雰囲気になっていったのかなと感じます。

 

 

 

あと、思ったのは

編集の感じも懐かしいなというのと、今のバラエティ文脈から考えると独特だなという感触もあって


ボケた後とかにナレーションで区切る感じが、なんか今のテンポとかフレーズと微妙に異なるから、それで出来上がってる「ゆるさ」みたいなものがあるよなぁ…と思いました


例えば、

芸人系深夜番組で言えば「ゴッドタン」とかとも違うし、
やってる内容的には近かったと思うけど「リンカーン」とかもこういう雰囲気とは異なると思います。

 

なんかこの編集の感じって、当時だと横並びの番組で「ぷっすま」とかと似たシステム、空気感だと思うのですが、

それよりもまず思い出したのは「気分は上々」で、

あの感じの縦書きテロップこそないものの、ニュアンスとしてはああいう感じのちょっと外側から俯瞰で眺めつつも、そのスタンスでずっと見てくことで芸能人の素の感じに触れてって親近感を覚えてくような面白さがあって、

あと、

影響的にこっちがあとだと思いますが

水曜どうでしょうとかもかなりニュアンス近いと思います。

 

 

内Pも実はそのニュアンスがずっと下地に敷かれてるから、ダウンタウンが先にやってたであろうシチュエーション大喜利のフォーマットを企画にしてもグダグダ感とかおじさんの青春感の方が刺さる仕組みになっていたんじゃないかなと思いました。

 

 

 

特に初期の頃は、たしか内村さんとふかわさんしかレギュラーが居なくて、「ふかわりょうの髪型をプロデュース」とか言って、特に大喜利もせず散髪屋でロケをしたりしてて、もっとタモリ倶楽部的なゆるさを押すコンセプトだったと思います。

 

当時の内村さんも「笑う犬」「ウリナリ」「炎のチャレンジャー」などのヒット番組を抱え、それを経てのB面を出す感じの方向で「内P」って立ち上がってたはずで、そこにそのニュアンスの本家(?)である「気分は上々」でバカルディからさまぁ〜ずに改名した三村さん大竹さんにその改名の責任を感じて内P出演の機会を増やしていったところ、そのタイミングくらいでさまぁ〜ずが本格的にブレイクしてその勢いで他のまだ売れかけの若手芸人がたくさん出るようになり、皆の思い描く内Pになっていったんじゃないかなと、漠然と記憶しています。

 

それらの歴史を踏まえたりしながら、まぁでも、そんな事をいちいち考えなくても普通にただただ笑えて面白かったです。

 

現代4コマ展


現代4コマ展に行ってきました。


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展示作業を少しだけお手伝いさせていただきました。

 

いとととさんの現代4コマ展


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四方を4コマに囲まれて、この空間が4コマそのものだと感じ、自分が4コマになってしまった気分に陥り、現代4コマ展は4コマだ…と意味不明な事を思ってしまいました。これは現代アートなのか、はたまたただの4コマなのか、認識と疑問に包まれた不可思議空間が前頭葉に心地よく、素晴らしかったです。

 

そもそも「現代4コマ」とはなんなのか?

 

 

現代4コマとは?

https://w.atwiki.jp/gendai4koma/pages/18.html

 

現代4コマとは概念創作者であるいとととさんが創設した4コマ漫画の新しい概念です。

 


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「4コマ漫画」とは?

通常4コマ漫画とは、4つのコマ(齣)によって短い物語を作る日本の漫画の形式の一つを指します。

 


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日本では江戸時代に風刺画や戯画を集めた書籍が木版画で出版されていたが、それらの中にはコマのような形で連続したストーリーに仕立てたものが存在した。江戸後期に出された『北斎漫画』の中には、ページの中に4つの絵が配され、その最後で「オチ」をつけたものがあり、清水勲は「4コマ漫画の源流」と記している

Wikipedia「4コマ漫画」から引用

 

 

つまりコマという枠内でのストーリー構築がメインの創作部分であり(しかもそれは4コマ漫画だけでなくその他全ての漫画表現がその構造ルールの中で展開されている)そこに価値や意味が生じているわけですが、それを枠内だけでなく枠外を描くところまで作品とし、というか"枠"である「コマ」そのものを作品として提示してみせる、という大胆な手法を取り始めたのです。

 


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これによって訪れる4コマ漫画のコペルニクス的転換は「そもそも4コマ漫画という表現形態とは?」という根元的疑問に立ち返らせ、この情報化社会に置ける定型的なコミュニケーションや、SNSを含むメディア機能の軽率化加速化過剰化への懐疑、などを偶発的に提唱している、もしくはそういった行ききった資本主義による均一的価値観とそれに伴う疎外感がこういった表現と潜在的支持層を生んでいるために出来上がっていった文化のひとつの噴出点である可能性が高いと、一部の批評家の間では囁かれています。

 

と同時に、こういった「定型の打破」的な追及自体は今までの漫画表現の中でもあったパターンではあるとは正直個人的に感じてはいます。

 

ですが、「現代4コマ」の画期的な点はそこだけではありません。

 

むしろ「定型の打破」を「定型化」させ、その上で新ゲームを生み出し、個人単位から「波及させている」というところに諸行の真価があると感じています。

 

これは、漫画表現とはまた少し別の

「フリップ大喜利」~「ネタツイ」までの文化的流れの把握があると理解しやすさが変わると思います。

 

「フリップ大喜利」とは何か?

 

まず、大元の"大喜利"の説明ですが、

寄席の演芸から派生し、観客からお題をもらって即興で芸を披露する行いが定型化したもの。それを笑点というテレビ番組を中心に"言葉遊び"や"日本版アメリカンジョーク"的なものへ絞られていった流れがあったのだと思います。

 

そこから、そこに「フリップ」という"文字"や"画像"を加えた形にアップデートしていったのが、「たけしメモ」や「一人ごっつ」で行われていた企画によるものだと


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こういった「講義」「紙芝居」的なスタイルは漫談としても確立されていたジャンルだったと思いますが、それをバラエティ番組の中での一人喋りの手法として確立させて普及させたのは、このふたつではないかなと個人的に捉えています。

 

そして、そのデザイン性のまま("内P"とか"Vaporwave"の文脈もあったりして)それらが民営化してゆく。その流れの分派先のひとつが「ネタツイ」文化だと思います。

 

「ネタツイ」とは何か?

 

 

ここら辺の文化は、遡れば深夜ラジオのハガキ職人文化や、2ちゃんねるニコニコ動画などの話も複雑に絡んでくると思いますが、フリップ大喜利と違うのは「誰が言っているのか」という部分に匿名性があるため、"背景"そのものがテンプレ化しており、その分「ノリ」が促進されやすいというところだと思います。"それを言ってる(やってる)事自体のおもしろさ"って感じが強い。何かのフレーズと画像が流行ると、皆それを題材に次々とボケ発言を繰り出しTLがそのカオスだらけになってしまいます。

 

 

そして「現代4コマ」という表現形態は、流れ上はそういう文化圏から生まれているとも言えるのです。

 

いわば、これは

"こんな◯◯はイヤだ"と"写真で一言"の美味しいとこ取り。

 

"こんな4コマはイヤだ"と"4コマで一言"

 

という大喜利を「現代4コマ」と呼んでみているおもしろさ。

 

これが拡散性を生むのです。

 

(興味深いのが性質としては、そういった「Twitter漫画」や「ネタツイ」的な構造をしているのに、その波及が「デザイン」「アート」「謎解き」「数学」などのいわゆる"ギャグ""お笑い"的なテイストとは異なる文化圏の創作が繰り広げられているというところ)

 

 


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こういったフォロワーによる2次創作的な要素をそれ丸ごと創作世界とし、"ノリ"が作品そのものと直結している。そこにグルーヴとイノベーションが炸裂していると感じてやみません。

 

「漫画表現」としては枠を外し

「ネタツイ」としては新たな枠を作って

 

いとととさんは概念創作家としての見事なまでの脱構築を成したかと思うとなんとその先に、

 

"個展"

 

という次なる1コマを描き出したのです。

 

 

いとととの「現代4コマ展」とは?


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「定型の打破」と「ノリの作品化」を体現するかのごとく、4コマを現代アートと謳ってみる事のおもしろさをそのままに、その最大公約数を叩きだしていました。

 

"何をやっているんだ"

 

額縁に飾られ並べられた4コマ空間に対して抱いた感想自体が、現代アートの真価それそのものでした。

 

お手伝いをさせていただいた身から言えるのは、いとととさんの存在、行動そのものが現代4コマだった ということです。


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設営中に作品が壁から剥がれ、床に落っこちてしまった時、落ち込みもせずに「なんかそれっぽいから、これもそのまま作品ってことにしよう。」と言い出して本当に落ちたまま展示したり、


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国旗4コマのスウェーデンが逆さまに展示されていたのに気付かず、来場者から指摘を受けて「あ、逆だった」と言って直して、その一連の様子をそのままTwitterに載せていたり、

 

 

一番面白かったのは、日本語も4コマ漫画という文化も知らない海外の方が来廊し、作品を眺めてコンセプチュアルアートを見ているかのようなリアクションをしていたところでした。その光景含めて、僕はこの空間がアート的であり、また4コマ的であると感じていました。

 

そしてなにより

これらを0から発案し、実際に行動し、成立させながらもところどころ破綻させ、そしてそれ自体を物語化させる俯瞰視点によって面白いノリを実際に造ってしまう、そんな起承転結性とその逸脱を繰り返し続けていた

 

いとととさん自身が、誰よりも「現代4コマ」でした。

 

今月25日まで開催されているそうです。

ご興味のある方はぜひ

ご自身も4コマになってみて下さい。

 


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https://shisui-tea.jp/pages/%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%81%A8%E5%80%8B%E5%B1%95-%E7%8F%BE%E4%BB%A34%E3%82%B3%E3%83%9E%E5%B1%95

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー感想

 


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見ました。面白かったです。

 

ネタバレになりますが、

と言いますかあまりネタバレが関係ないタイプの映画だと思いますが、

 

レインボーロードのところが色彩鮮やかで、疾走感があって、見ててワクワクする楽しさがあって、特に好きでした。マリオカートを久しぶりにプレイしたくなりました。序盤での工事現場を走ってゆくところもマリオ感満載で良かったです。横スクロールのジャンプアクションゲームの醍醐味は、あの部分でもう求めていた映像欲として満たされていたと感じます。あのシーンを操作したくなりました。

 

ゲームというものの擬似体験性と、

映画というものの追体験性の、違いも感じました。

 

なんというか、マリオに感情移入はそこまでしてなくて、ストーリー構成の妙に唸ったとかも全然無くて、見終わった後にずっとマリオの1面の音楽が絶え間なく流れ続ける感じのゾーンに入ったと言いますか…上手い人のゲームプレイ画面を横から見てたような面白さがありました。

 

 

それはおそらく、僕の世代的なものが関係していて、僕はスーパーマリオ64世代なので、映画の中で描けれていた元ネタがほとんど分かった、という部分が大きいと思います。今回SNS上で、映画批評家的な人たちと、そうではない視聴者との間で、論争めいた現象が起きていたのも若干確認したのですが(それすらも出処がどこからかわからず信憑性があるのか無いのか分かりかねますが…)たしかに、ファイヤーフラワーとかギャラクシーのチコとか説明不足だし、そもそもの土管の存在が前提共有過ぎるので、あれを伏線か何かだと捉えながら見たのだとしたら覚えた謎は解明どころか全く回収されずに終わるので、意味がわからん…となるのも察します。でも、まぁ…そういうものだしなぁ…と、マリオをやった事ある視聴者的には思ってしまうのも事実です。

 

なので、その世代差を含んだ前提知識による部分が大きいというのがあった上で、しかもそれがゲームであるという要素もかなり重要だと感じます。

 

ゲームの特性は擬似体験性だと感じるので、脳内補完が容易く行なわれてしまうのだと感じます。

横スクロールのスーパーマリオが顕著ですが、我々ゲームプレイヤーは画面の中をその世界の全てだとして神の視点で主人公を操作します。

この時、操縦先であるマリオに感情移入をそこまで深くしていないと思います。し過ぎるとプレイに思い切りが生まれないし、だからこその現実では体感出来ない運動神経を駆使することが可能だからです。能動的な楽しみ方。

 

それに引き換え、映画の特性は追体験性です。むしろ主人公に感情移入しまくります。キャラクターへの没入が100%達成されなくとも物語や世界観に整合性を求めそのリアリティによって情報密度を堪能します。もっと例外的な視点で言えば、それが抽象的で難解な作品だったとしても、その奥にある監督の意図を読み解こうとする、という楽しみ方があります。これらは全て、受動的な楽しみ方です。逆を言えば、映画そのものには視聴者が「操作」できる余地がないという事です。

 

 

この違いがこのコンテンツをどう評価するか、受け手の視点によって左右される率が上がる事を意味しているのだと感じます。

 

 

やはりマリオをある程度プレイした事があって(特にやっぱり、64以降の3Dになってからの横スクロールじゃないマリオが体感的に染み付いているかどうかがメイン)キャラクターやアイテムがどういう意味のものかを把握していればしている程に答え合わせ的に楽しめる構造になっていて、それが今までプレイしてきたマリオを想起させ、自身のプレイ遍歴を自動的に重ね合わせてしまうために、鑑賞後に勝手にクリア達成感を味わってしまうのだと思います。下手したら映画館で鑑賞をするという行動そのものに操作欲の刺激があるために、批評行為へのバッシングが目立っている可能性もあるのでは?と考え過ぎてみたりしちゃいます。

 

また、これはこの映画だけでなくさらに外側の視点になるのですが、エンタメやコミュニケーションのあり方が、情報化社会の中でコンテンツの前提共有をかなり孕んで運営されているからこそ成り立つ、という状況が目立ってきたと感じています。マリオだけでなく、漫画やアニメが原作で映画化され元からのファンが大きく反応する現象ももはや当たり前の光景です。音楽で言えばvaporwaveとシティポップの関係性や、お笑いで言えば大喜利文化というものの領域拡大など、これらは全て知識や体感の前提共有の伴いと、当事者参加者意識が含まれている代物です。インターネットが浸透してから以降の新しい普遍領域。

大衆娯楽と二次創作の境目はとっくに溶けて無くなり、共通体験という価値観はかつてほどは所持しにくくなっているのかもしれません。受動的なコンテンツでは。そういう点でもゲームというものが擬似体験そのままに追体験できるほどにプラットフォーム的な土台がかなり盤石になってきたという事の表れなのかもしれません。

 

なんて事を言っていたら、

余計にマリオをプレイしたくなってきました。

 

 

「裏表紙」ダブルブッキング川元文太監督作品 感想

ダブルブッキング川元文太さん初監督映画「裏表紙」を見てきました。

面白かったです。

 

なんと言うか、ダブルブッキングのコントの設定に出てきそうな(初期の頃の、「友達の家の物を入れ換える」「友達を誘拐する」的な発想のネタ)、だけども映像でしか表現できない、絶妙な哀愁、物悲しさ、嫌な感じ、気持ち悪さ、などがあって良かったです。

 

なんか、川元さんの笑いって、

「ダメを愛する」とかっていう感じじゃなくて

「ダメであり続ける」って感じと言いますか…

 

もはや

「愛とはダメなものである」ぐらいまで行ってる雰囲気すらあって、

 

最終的な着地点含めて

世の中の、よいとされてる物とか人とか、正義とか倫理とかを、それこそ甲斐性がなく有耶無耶になし崩しにしてゆくダメ男のように、ズルズルと引き剥がしてしまう行為に、

 

ある種の真理とカタルシスが、ガス漏れの如く充満しててゆっくり窒息してゆくような気持ち良さがありました。

 

 

ここら辺からネタバレになってしまうのですが…

 

 

登場人物全員に、共感と侮蔑を同時に注げる歪なディテールが舌触りとしてあって、

 

特に、いとうせいこんさんと、磁石佐々木さんのジトッとした嫌な感じが色気があって好きでした。立場のある人の歪みかた。目付きにダメさが宿ってる、管理職ゾンビっぽさ。結局、あの2人も働いてるフリでしかないし、それって悪役というポジションですら実態が無いという事を、二重構造で描いちゃってる。

 

マツモトクラブさんの目立たないように生きてゆく事の肯定と、そこへのプライドが感じられるスタンスは、一見格好良いし物語の中ではそこを中心に描かれているけど、端々でさりげなく挟み込まれる「生徒に手を出してる」「半額のシールを張り替える」などの根本的な安っぽいクズさが丁寧に紡がれてるところも逆に素敵。

 

まんざらでもねぇ涼平さんの薄っぺらさも味わい深かったです。素直で愚直な愛されキャラとするには、全部を舐めくさってるし、しかも自分のその主観にあんまり気付いてないという、一周回って結果爽やかな喉越し。こういうのってバカキャラみたいに処理されがちだと思うのですが、なんかそこら辺が、上り詰めてゆく奴の性格としてリアリティがあって、凄い天然でもなけりゃ、凄い計算高いわけでもない、小田嶋さんとのくっ付き方とかにそのしょうもなさが存分に表れていてニヤニヤしちゃいました。

 

そういった登場人物たちの、リアリティのあるうっすらとしたダメさ、が心地よく、それが映画の世界観を包み込んで、見終わったあとに自分の心身にそれが染み込んでいったのを感じました。

 

 

ストーリーとしての教訓的なものも、別に無いんじゃないかと思うけど、無いようであるような、ちょっと昔話のような勧善懲悪っぽさもあるにはあって、

 

単純なヒロイズムとして捉えるなら、

「サボるが勝ち」なんだけど

だとしたら、佐々木さんが撃退される意味もあまり無いし、でもだからこそ小市民視点での爽快感もあったし、ただマツモトクラブさんのクズである事に変わりはないし、そこら辺が川元さんのあの乾いた視点を一番感じるところでした。

 

絶対的に「いい話」ではないのだけど、

なぜか「いい話」だったかのように感じてしまう。

 

面白かったです。

また見たいです。

 

 

電波少年で箱の中に閉じ込められていた川元さんが、「空っぽの箱」を運んでいる映画を撮っている事が、

 

なんか良かったです。

 

ちいかわ=弱者論


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「ちいかわ」が好きで、よく読んでいます。

漫画家ナガノ先生のTwitter発の漫画、

グッズもたくさんあって、老若男女から幅広く愛されてて大人気です。

 

 

 

ほのぼのしたキャラクターと、可愛らしい世界観、とは裏腹に、実は殺伐とした描写や設定が、時々垣間見れて、その物語への読者の反応や考察も込みで、より一層楽しめるという、SNSエンターテイメント になっていると感じます。

自分も、そんなゾクゾクするような、ちいかわワールドと登場人物の心理描写に、一喜一憂しながら、Twitterで読むのにちょうど良いサイズ感のストーリー進展を、味わってきました。

 

 

乱立する考察動画や、増殖するコラボ商品に、この世が「ちいかわワールド」に突入してしまったかのような不思議な気分を覚えながらも、ぼんやりとそれらを眺めている内に、とりとめのない事をいくつか想い巡らせました。それを書いてゆこうと思います。

 

※ストーリー考察や、キャラクター愛を語るような文章ではなく、個人的に漠然と思った事をTwitterで呟き溜めてたので、それをまとめたものになります。

 

目次

 

なんか "小さくて" かわいいやつ

これは、読んでて、常々感じている事です。

 

 

こういう、児童向け的なキャラクターが、"国民性のようなもの"を獲得してゆく中で、癖の強い部分が削ぎ落とされて、結果、可愛らしくなる、という事は今までも数えきれない程あったと思うのですが、「ちいかわ」は最初からそれを構造的に持ち合わせていると感じます。

丸っこくて、瞳がつぶらで、声がか細い。

 

弱者性がキャラの魅力に、前提段階で直結してる。

 

 

潜在的な弱者需要のようなものが、上がってきている気がしています。

例えば、時代を遡って、ドラえもんサザエさんクレヨンしんちゃんちびまる子ちゃん、が漫画段階だった時の、キャラクター性や絵柄と比較してみると、ちいかわのそれより、「あざとく」ないんです。

 

なんかもっと朴訥で、生々しくて、弱者性とは違う、生物としての社会的な愛嬌が舌触りとしてある感じ。そんな絵柄が多い気がします。

時代によって「親しみやすさ」の定義ごと変わっていたり、漫画表現の技術や機材の進歩など、関係あるのは、もちろんなのですが、そこに何らかの社会通念の経年変化も感じます。直結する「可愛いさ」の先鋭化、抽出加減の高次元化。キャラが「可愛いさ」しか、求められてなくて、それによって原材料である「弱さ」の成分が濃度として高まってるような感じ。

 

 

「安心して虐げられる弱者性」は

「安心して可愛がれるキャラクター性」と

繋がっていると思います。

 

「弱者だから毒吐いても許される」

「弱者に毒吐いたら許されない」という

相互作用で、炎上エンタメ的なものは成り立ってると思います。

 

ちいかわは、その構造原理を「可愛いさ」に特化させて、その部分を作品に仕上げているのではないでしょうか。

 

 

 

「愛玩」「共感」「加虐」

これも、ずっと感じています。

 

特に「共感」が分かりやすいと思います。

というか、そこに関しては、Twitterというツール自体が、かなり共感装置として磐石なので、ちいかわ以外のコンテンツも、Twitter発祥だとそういう支持を集めがちだと思います。

 

「加虐」

精神的にも、肉体的にも、基本的に主人公である、ちいかわに向けて、それは行使されてて、その時「かわいそう」だと共感すると同時に、「いいぞもっとやれ」的な加虐者側の立場への共感装置として、特に初期の頃は、うさぎと、ハチワレは、そういう役割として存在していたと思います。

 

「愛玩」

これは、漫画という表現法方、そこに用いられるストーリーに対して、「キャラクター」という概念が、そもそも愛玩性を持っています。それを、より強調してゆくと、コミュニケーションが排されるという現象だと感じます。

 

 

こういった循環性の中に、漫画のジャンルとしての表現パターンも見受けられる気がします。

いわゆるONE PIECE等の、戦闘シーンがあるタイプの漫画。ちいかわを読んでて、最初に意外性を感じる、一番大きなフックとなる要素だと思います。

あたしンち

こういう、あるあるネタっぽい話が、ちいかわのパブリックイメージとも結び付いてるスタンダードな要素のひとつだと感じます。

 

 

蛭子能収

世界観自体はシュール系ナンセンス系抽象的なギャグ漫画っぽい。

そういった作風って、作者の精神状態が反映されてるものだと思うので、大衆性を高めてゆくとエピソード的になるんじゃないかな、と思います。

榎本俊二福満しげゆき、とかの不条理漫画がそれに該当してると感じます。

榎本俊二

福満しげゆき

ちいかわ にも、その要素は感じられます。

 

どの要素で楽しんでるかが、読者によってかなり別れているのに、ひとつのストーリーとして成立しているところに、凄みがあります。

 

 

SNS漫画との比較

犬のかがやき

 

100日後に死ぬワニ

 

おぱんちゅうさぎ

 

わたサバ

 

 

あと、それらのバランスを全部反転させたものが、「地元最高!」だと思っています。逆ちいかわ。

 

地元最高!

殺伐とした弱肉強食のアングラ世界に、どうしようもない可愛らしさが横たわっているような漫画です。

 

 

さて、

こうして見比べてみて、なんとなく感じるのは、いずれにせよ、なんらかの弱者性。非常にザックリとした見立てですが、上記した漫画達は、「愛玩」「共感」「加虐」要素が、入っていて、それは「弱者性」を前提にしたものだと感じています。

 

もちろん、そういった方程式めいたものは昔からあるでしょうし、これらの作品は、SNS浸透以降に登場しただけに過ぎないという事でもあるので、こじつけ的でもあると自覚しています。

 

ただ、その「共感」であったり「加虐」であったりは、近年、どんどんピンポイント的に描かれていってるとも感じています。いわゆる「繊細さん」的な、あるあるネタは、その解像度が上がってゆくにつれ、普遍性も強まってゆき、参加人数と共に、社会生活や人間関係、果ては自己啓発的なものも含んだ、自我の形成に対しても「マニュアル化」が促進されていってるような自然現象を感じます。

仲間内での言葉遣いですら、10年前より公衆意識的な道徳心が働いてしまう人も、少なくないのかもしれません。

 

もしくは、「地元最高!」のように、社会基盤的なゾーンに置いての弱者性を、メタファーとして描いている、との捉え方も出来るとは思います。(そこに関しては、後天的な要素だとも感じます。描いてゆく内に世界観が深まってルール設定が出来上がっていったグルーヴのようなものを感じるからです。)

 

それは善悪両面を持ちながら、SNSの浸透と共に、高度化しているコミュニケーション形態が、第三次産業の発展に影響されながら、構築されていった「社会芸術の表れ」の一部でもあるのだと感じます。

 

ちいかわと推し文化

また、漫画表現の外側にも、それらの影響は拡がっていると感じます。

 

これこそ、なんて言えばいいのか、言語化が難しいのですが、本当に似たような、なんとも言えない気持ちになるんです。

 

ロングコートダディだけが、該当するわけではないですが、お笑い芸人やテレビタレントも、そういった「推し文化」的な需要を理解した上で、エンタメとして振る舞っているような瞬間を、見ていて多々感じます。

 

「推し」なる言葉が、いわゆる「ファン」と違って、自己規定ではなく、対象の私物化、的な意味合いが発生していると思います。

 

また、推す側だけでなく、

推される側からの視点を想像してみると、自己表現の中に「弱者性」を用いる事でのリスクヘッジと、逆を言えば、搾取構造にどう身を置くかの判断が、求められている、という事でもあるのではないでしょうか。

 

そして、これはエンタメだけの話ではなく、日常のコミュニケーションや、社会構造の内部に、組み込まれていっている要素だとも個人的には感じています。

 

人間の「ちいかわ化」とも呼べるかもしれません。

 

 

また、そういった「推し」的な支持の文脈の中には、副産物として「炎上」的なものも複雑なバランスで組み込まれていると感じます。

 

「推し」の敵、「推し」に裏切られた、「推し」を止める(変える)、「顔推し」「箱推し」、リアコ、同担拒否、検索避け、

 

などの概念は、対象への愛玩と同時並行で、対象外への防御的加虐を、若干孕んでいると感じる傾向もあるように思えてしまいます。(推すこと自体が悪いわけではありません)

 

そういった反比例性を、作品の中でキャラに背負わせて描く事で循環させる骨組みを、ちいかわ、まどマギCCさくら、などには感じます。「闇落ち」の全体像化ともでも言えましょうか。「闇推し」とでも略しちゃえそうです。

 

そういう意味では、

やっぱり「弱者」という概念そのものには

セットで「強者」という概念が存在している

 

という事でもあるのかなと感じます。

 

「でかつよ」や「鎧さん」が描かれるの必然なのかもしれません。

 

まとめ

ちいかわの「弱者性」を見ている時

読者は「強者」に成ってしまうし、

 

この作品がここまでのムーブメントを生んでいる事自体に、圧倒的な「強者性」が発生してもいます。

 

そう捉えてゆくと、それを享受している我々 消費者の方が「弱者」と言えるのかもしれません。

 

そこにあるのは、「弱者」「強者」の

表裏一体性です。

 

 

なんか、いろいろ考えたりしましたが、

 

ちいかわの「可愛いさ」を見てたら、どうでもよくなってきました。

 

これからも、読みます。