「オズワルド」M-1 2022

 

オズワルドは「漫才の会話」という"設定"から出ない。

その中で行われる"論理の飛躍"によって、非現実世界みたいな領域を構築してると思います。

 

ロングコートダディは「漫才コント」を行う漫才という"設定"からは出ない。

コント内での"展開の飛躍"によって、「漫才の会話」という領域からははみ出ながら非現実世界を包括してると思います。

 

たぶんもっと複雑なんだろうけど、あえて単純に言おうとしてみると、

 

オズワルドは

「漫才というコント」してて

 

ロングコートダディ

「漫才の中でコント」してる。

 

っていう感じなんだと思います。

 

 

漫才という会話コント

オズワルドの漫才って、会話劇比重の高いコントでもあるなと感じていまして、バナナマンの「pumpkin」というネタがあるのですが、こういう言葉の掛け合いのみでほとんど動かず、机上の空論的に、"結果としての状況のおかしさ"的な地点を目指してる、という設計な気がします。

 

 

で、こっからちょっと思考実験的な飛躍をしてみるんですが、M-1という番組自体が「漫才大会のコント」をずっとしている、ようにも捉えられる…

 

それを意識した場合、上記のような「コントとの境界線上的な演じ方をしている漫才師」って「漫才大会のコント」の登場人物として凄く適してると思うんです。

 

 

M-1という大会コント

オズワルドもロングコートダディも、ちょうど良い問題提起感があり続けてると言いますか、例えば2010年のジャルジャルの「コンビニ」ほどメタ視点込みのカオス構築や、今年のヨネダ2000ほどの解体芸術テロ行為みたいなとこまでは行ってない。

だからこそ一発が大きくなり過ぎない。コントが持続してる。

 

M-1という漫才大会のコント」を継続させるために、その"設定"から出てない。

 

なんか上記したジャルジャルやヨネダ2000はやっぱり「定義されてる漫才(の概念)」からは出ちゃってる感じがします。

かと言って、さや香とか銀シャリとかは「漫才」過ぎて「漫才大会のコント」には乗ってる感が薄め。

 

これ誤解されがちかもしれませんが、決して採点基準の話ではありません。

コント的な漫才が優勝出来ない説を唱えているわけでも、漫才の定義を解体している組が決勝に相応しくないと言ってるわけでもありません。

 

M-1というコント」だと捉えた場合に

「漫才コント師」的な芸風って、見やすい。

という話。

 

 

漫才コントという明晰夢

M-1という番組は

「定義されてるであろう漫才」という"設定"から出ずに繰り広げられる会話劇を

 

「漫才大会に出てそうな漫才師」という"設定"からはみ出ながら大会出場者を一人一人演じてる。

 

オズワルドからロングコートダディまでの領域内に全組納められると思います。

 

コントとして見たら。