「ヨネダ2000」M-1 2022

 

すごく感覚的になんだけど、ヨネダ2000の面白さはそんなに音楽的な部分に比重があるわけではないと感じます。

 

 

女版と形容されたランジャタイとそこまで似てるわけでもないと個人的に思います。

 

 

そして、ランジャタイの方がもっと音楽的に複雑だと感じる。

ヨネダ2000は映像的。

 

 

高熱の時に見る夢モノマネ

ヨネダ2000の面白さは、ボーボボの亀ラップを見た時と近いと思います。

 

 

展開のみを積み上げてゆく風邪引いた時に見る夢漫才。

起承転結ならぬ起転転転で全体構成してゆく額縁芸。

その展開パターンは実は前提共有的な部分があって、そういう意味では真空ジェシカと似たような感度の世代格差があると思う。

 

これは何をしているかって言うと

「ギャグ漫画のモノマネ」をしてるんだと思うんですね。

雑なラップ描写(しかも元は誌面上で)から始まって、それを解体し続けて(本来なら1コマで終わらせれるボケを延々絵変わりせず続けるという勢い系スカシ)極限まで溶かして原液にしてそのノリ自体をギャグ化してる。

 

ヨネダ2000も

「漫才のモノマネ」をしてるんだと思うんです。

唐突なテーマ設定、ツッコミ側も破綻して一緒にノってく、中盤以降に歌う(ダパンプでフっといてラップ部分を違う人がやるのも球種としてはあるあるだと思います)解体し続けて脱構築もせず解体そのもののグルーヴを漫才の様式に頭とお尻だけギリ繋いでる。

 

あとたぶん、

ボーボボは漫画表現だから絵変わりをせず掛け合いの展開をして行ってて(普段のボーボボは場面やキャラが急に展開したりする)、

ヨネダ2000は漫才という喋りの形式が限定されてる舞台表現だから、横に展開してゆく(人物が増えて風景を想起させてる)というスカシ方になってるんだと思います。

 

で、それはやっぱりランジャタイとは違う積み上げ方だと思います。

 

大きく言えば両者ブッ飛んでる系だと言えるけど、ランジャタイの飛び方は漫画で言えば、ピューと吹くジャガーの無我野喬至オチみたいな感じ。

丁寧なディテールによってカオスへ突入させてく「いつの間に沼に…」的な造りになってるいるのではないでしょうか。

 

 

ヨネダ2000が似てるブッ飛んでる系は、どちらかと言えばトムブラウンとかだと感じます。

 

 

トムブラウンも映像的と言いますか、2人ともアイコニックになってゆく事を先行させてて、そこにストーリーを生じさせています。

「狂人と化物」が漫才してるというモノマネから出ない。

そこはヨネダ2000よりも基本に誠実で、スカシよりもベタのやりきりで展開してゆく。

漫画で言えば、でんじゃらすじーさん

 

 

立川版審査員

この「映像的」かどうか、って所が重要で志らくさんはそこら辺に反応して「女版ランジャタイ」って形容してると思うんですね。

 

そこにはある種の簡素化があって

「女」も「ランジャタイ」も、

記号的に捉えている。

接合の面白さ。それはモノマネへの理解。

志らくさん自体が、立川談志のアイコン化芸だから。

 

「性別」そのものは身体的差異でしかないのだけど、「男女」という認識をした段階でそれは記号化の側面を持ち始めるんだと思います。

人間の社会生活はその記号化のモノマネをしてゆく事で全体像を構成してゆく(あくまでモノマネなので完全に"それ"になる必要はなく、アイコンになるに留まる。どう反応するかも個別です。)

 

単純に言い過ぎぐらい単純に言えば、

男は「男」のモノマネをしてるし、

女は「女」のモノマネをしているに過ぎない。

そしてその性別をフックにした「男女」という認識は身体的差異そのものの事というよりも、その周辺文化の概念的領域の事を指しているので、それ自体が地域や時代によって まだら模様。

 

例えば、細かい見方しちゃうと

「絶対に~↑成功させようねぇ↓」とかは

微量に、中学生女子吹奏楽部あるある的なモノマネが成分としては入ってて、それは

「女性がやる事で意味が抽出されてる」とも言えます。

そういう意味ではヨネダ2000は「女性の武器」を使ってる部分が構造的には確認できると思います。

 

そういった、ひとボケに対する性別的世代的な前提共有を省いていったとしても、おそらく志らくさんの見ているポイント(ブッ飛んでる系、つまりは形式の破壊という形式)としては、むしろ表層にこそ言及する意味があるのだと。

あと「女の武器」という言い方自体が、あの年代の「男の防御」モノマネ。

 

ヨネダ2000は

「漫才×リズムネタ」のモノマネをしてるし

立川志らく

「落語家×審査員」のモノマネをしてるんだと思う。

どちらもそういう額縁芸をしている、

という根本的な認識を周囲は忘れてしまいがちで、そしてその地点にこそ面白さがあるのではないでしょうか。

 

 

ハレの日ハードコア

あと、個人的な感覚で言語化が難しいのですが…

話が最初に戻ると、ランジャタイの方がヨネダ2000より「音楽的」だと感じてるんです。

どっちも面白くて好きですし、もちろんヨネダ2000のネタは音楽性がかなり高いんだと思うんですが…

なんて言うか、自分はたぶんテクノそのものに音楽性の薄さを感じてる部分があるんだと思う。

 

全く知識が無いまま言葉にしてみようと思うのですが、いわゆる"揺らぎ"みたいなものを感じるか。

漫才で言うところの"絶妙な間"みたいなもの。

で、そこからさらに演技とか言語みたいなものを排していってもグルーヴを生めるのか。"揺らぎ"だけになっても成立するのか。

 

 

そういう感覚で言えば、やっぱりヨネダ2000やトムブラウンには、ある種の「形式」を感じます。

野性爆弾ハリウッドザコシショウ片岡鶴太郎エンタツアチャコも破壊そのものの目的化が感触としてあって「お約束」の再定義みたいな運動をしてるんだと思う。

それは革新的で熱狂的で面白い。

でもラリってはいない。

 

 

 

「バグってはいるけど、ラリってはいない」んだと思う。

誤解を恐れず言えば、ランジャタイはラリってる。

繰り返しそのものを目的化していないハズなのにマンネリズムな面白さが充満してるし、あとなによりその上で発露は衝動的かつ逸脱的。

原始的なリズムに根差した逆行してるコミュニケーション。

音楽そのもの。

だと、自分は感じているのかもしれません。

 

ヨネダ2000のテクノ感は、超新塾とかに近い。

大川興行の花火のやつとかも。