「真空ジェシカ」M-1 2022
真空ジェシカってもう
という感じがあります。
「何で来たか?→パトカー(韓国の受験生)」
っていうボケをどの段階に配置したら面白いか?
→序盤の4ボケ目(派遣のニューウェーブの後)
みたいな、
構成そのものでボケちゃってる領域。
ラヴィット!の教訓
話が少し遡るのですが、
真空ジェシカが「ラヴィット!」に出た時
炎上とは言わないまでも、ブーイングのような感じの現象が起きていました。
プレイヤーの支持層とコンテンツの支持層がバッティングした瞬間だったのでは、と思います。
真空ジェシカってこの動画のコメント欄の盛り上がりを見ると、ここまでの濃度のものですら観客含めて、面白いものとして捉える事が容易く出来ちゃう。
そういった支持層の笑いにラヴィットをヒルナンデス的な情報番組だと思って観てる層が触れたら心底ビビると思います。
いろんな理由があるとは思うのですが、旧来型のメディアや、長らくコアな支持層によってガラパゴス化していたジャンルなどが近年、情報化社会の過渡期に差し掛かっている時流の中で、不意打ち的に交錯しやすくなっているように感じてて、それらが互いの文脈を把握が薄いままに衝突し、過剰反応が起きやすくなっているタイミングだったのではないでしょうか。
ある方向性の濃度を高めていけばいく程それはドメスティックなものにならざるを得ない。
というか、だから面白いわけで。
ただその支持は加熱する程、逆にその場所がいつまでもクローズドなわけではなくなる事を意味し、経年変化も求められる速度が上がってゆきます。
この話はガキ使の黒塗りの海外の炎上とかにも繋がっていると思います。
たぶん「二進法」等のワードが難しかったと言うより、「一日市町」から「5秒秘書」とかまでスピーディに発展してゆく大喜利のルールみたいなもののに世代間格差が生じていた気がします。
それが掴みにくいから
「単語とかコンセプトの難解さ」と捉えてしまう。
俺じゃなきゃ俺じゃなきゃ見逃しちゃうね見逃しちゃうね
つまりめちゃくちゃ単純に言えば、
「あえて」の面白さだと思うのです。
ただややこしいのはその「あえて」が伝わらない層をほっといても今までは交わらなかったけど、それが今は届いた上で伝わらない。
という現象に本人やその周囲がどれだけ「自覚」してるかも面白さに含まれつつあるという事なのでは…?という感じ。
そして、それらを踏まえて今回2022年のネタは、周囲も真空ジェシカという漫才師のルール把握をしていたし、真空ジェシカ側もそれを踏まえた上でコントロールしていた感があると感じました。
同時に、それによって
という驚異性も感じました。
「俺じゃなきゃ見逃しちゃうね」の入れ込み方とか。
このワードの面白さ自体が、この言葉の意味とダブルミーニング的にどちらの層にも届かせてる、という凄みがさりげなくあったと思います。
シルバー審査員センサー
あと、ガクさんのツッコミ方も実はうっすら内輪ボケの面白さが世代的にあると感じてて…
コンビバランスとしてツッコミ台詞を太字にしてゆくというトレンドとも微妙にちょっと違う前提共有、な気がします。
個人的にはですが、あの長めの説明台詞でフガフガしながらツッコむのって「ギャグマンガ日和」の吹き出しをすごく思い出しちゃう。
憶測なんだけど、ある時期からギャグ漫画って文章増えたんだと思うんです。たぶんマサルさん以降。
勝手な印象論ですが、漫画表現でのギャグのパターンがある程度出尽くして枯渇したから、構造的なボケ方(というかギャグをボケと定義できちゃう段階でかなり概念的に言語化されちゃってる)に進化せざるを得なくて、それによってツッコミの解説比重が増えたのではと。
ガクさんはその文脈上にいると思う。
「戒名の曲→かいみょん」に対して「死んだーソングライターの…」って後乗せワードは、松尾芭蕉が弟子の曽良くんに暴力を受けリアクション後にコマの端っこで添えるように足されてる一言っぽい。
そしてその面白さは漫画表現で出来るギリギリの言語的な笑いの追及だと思います。絵と字で間を発生させてる。
真空ジェシカは話術表現なので、余計に言語的な洗練が乗ってきてる。言語領域は置き換えが本質なので、より内輪的。
もうそれって漫才とはちょっと別の芸術みある。ゲームオタクが、プレイを極め過ぎてどれだけ早くクリア出来るか競い合いRTAというゲーム内ゲームを生み出しちゃってるみたいな状態だと思います。