「ウエストランド」M-1 2022

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ウエストランド井口さんは

太田光さんっぽい毒っぽさを

田中裕二さんのリズム感で発露してる芸だと思う。

 

「いじり」と「いじられ」の合体。

毒を吐かれながら毒を吐く側を制す。

 

ウエストランド井口さんって

「毒舌」じゃなくて「ツッコミ」だと思います。

 

フォームとしては対象へ過剰に指摘をしている(もっと言えばその積み重ねで「いじり」の領域に到達させてる)。森羅万象メタ視点丸ごと全てにツッコんでいる漫才。

なのでボケになっちゃってるのは河本さん含めた観客である我々の方。

 

 

「毒舌家」には免罪符が必要論

一発屋であるとか、年代や性別的にマイノリティな立ち位置であるとかの理由で、有吉さん、坂上忍さん、ヒロミさん、マツコさん、梅沢富美男さん、ひろゆきさん等が活躍してきた訳ですが、ウエストランド井口さんは純粋に弱者振る舞い。「毒をもって毒を制す」感が凄い。

 

山里さんとかアンガ田中さんは「キモイ」振る舞いの上で他虐だったけど井口さんはもう「かわいそう」前提でやってきてると言うか。

自虐が突き抜けて八つ当たりになってる。だから強めに「いじってもいい」ってルールになってる。

言葉選ばずに言うなら

「街中で叫んでるヤバい人」のタレントバージョン。

 

井口さんのスタイルが特徴的だなと感じるのは「いじられ」と「いじり」がフォームとして合体してる所だと思います。

毒を吐かれても毒を吐いてもどっちでも面白さが変わらない。

この清濁併せ呑む感じってあんま居ない、

というか居るけどあんまりここまで広範囲に稼働しないタイプだと思います。

 

「毒舌」って免罪符を得た後維持するのも難しいんだと思う。

そしてそれは有吉さんや坂上さんみたいに切れ味を緩めて「いじる側」として立ち位置を固定化させるか、村本さんとか太田さんみたいなKYキャラに積極的になっててそれによってある領域での言論性を守る「嫌われ役」になるかのどっちかが多い。

 

だけど井口さんはそのどっちでも無い。もしくはどっちでもある。

井口さんはむしろ上記したような山里さんやアンガールズ田中さんがやってた「いじられ側」からやって来てる。

そしてその上でカウンターやエピソードで毒を吐いてる。

もっと言えばツッコんでる。

ここがなんか時代の象徴的だと思う。

 

そういう「いじられ」と「いじり」の垣根が無くなってるトリックスター的なタイプってかなり稼働範囲が狭いと思うんです。

イメージは岡本夏生さんとかラッセンの永野さんとか、あと微妙におぎやはぎ小木さんとかもピンだとそう。「毒舌」と「天然」が混ざってる。でも井口さんはそれで稼働範囲広い。

 

ボケ芸人の終着地点 河本太

むしろ論ずられるべきは

「ボケなのに全くボケないどころかその事に自覚すらしていない、というボケ」をしている河本さんの在り方ではないかと思う。審査員も観客も視聴者も評論家も否定派も擁護派も、「自分がボケだと自覚出来てない」と思う。

 

「ツッコミを中心に持ってくる」フォーメーションってM-1という漫才進化の過程の中で多種多様に枝葉が分岐していったと思うのですが(例えツッコミやWボケ等のシステム)その時のボケ役側の在り方って「ツッコミワード誘発のフリ」になりがち。

そして、その進化の終着地点が

河本さんの「ボケないボケ」。

 

霜降りの「動き」ミルクボーイの「情報」ももの「顔」、等のようにボケ側の存在意義はツッコミワードを誘発させるためのフックという部分にどんどん集約され発言や振る舞いが簡素化してる。もも辺りで素材の身体性から連想する周辺領域にツッコミの矛先は向いててこの段階でかなりボケとして没独自的。

 

そういう意味では井口さんって「無」にツッコんでいるとも言える。最後につまらない答えという取って付けたようなボケを提示してその均衡をかろうじて保たせてる程に河本さんの機能は極限まで「井口さん以外」で在り続けてる。井口さんは「無」にツッコんでるから「井口さん以外」全部にツッコめてる。

 

そして、その井口さんに対して面白がろうとも憤ろうとも「過剰なツッコミをボケと見なす漫才」だと認識して指摘してしまう段階で「井口化」してしまう。「過剰なツッコミをするボケ」の井口にツッコミを入れてしまっている。「過剰なツッコミをするボケの井口にツッコミをするボケ」になってしまう。

 

さらに混沌を深めるのなら「過剰なツッコミをするボケの井口にツッコミをするボケ」になってる視聴者への、お笑い擁護論も、これまた「過剰なツッコミをするボケの視聴者にツッコミをするボケ」になってしまう。「ツッコミをするボケ」の螺旋階段。なおかつ、それを放棄すると「河本化」してしまう。

 

この「河本化」が一番グロいところだと個人的に感じてます。ウエストランドの密室芸のトロ部分。我々はもう「ツッコミ」になってしまう事から逃れられないのに、ボケ自覚なきボケとして「つまらないクイズ」の2択を自分以外に迫ってるだけ。差別にあって、お笑いにない。お笑いにあって、差別にない。

 

みんな皆目見当違い

僕はどうしても河本さんに共感してしまうんです。河本さんって「ポンコツ」とか「ヤバい奴」的な、じゃない方芸人処理をよくされてますが、それよりもっと外側に居ると思う。言語化してみるなら「素人」。素人が舞台に上がってきてるから、そこ起点に井口さんは四方八方にツッコんでるのを許させてる。

 

逆を言えば、それによって井口さんさんはその「素人」越しのフィルターに晒されて吊し上げられがちな構造の中に身を置くことになるし、だからこそ内輪ウケとも呼べる領域をメタ視点含んで笑われる事が出来てる(「内輪ウケかよ」と一番外側から見下される事自体も現象に組み込んでコメディにしちゃえる)

 

なんか、この話を突き詰めてゆくとルボンの「群衆心理」や、アドルフアイヒマンとか、そういう事象に突入してゆく気がします。

 

井口さんは確かにジョーカーなんだけど、そのダークヒーローを生んだ理由は、河本さんの素人性によるもので、その素人性とは観衆である我々の事であるわけで、そして井口さんはそこに向けてツッコミを撒き散らしてるわけです。井口さんを生んだのも我々だし、我々が井口さんになる可能性もあるんです。

なんならむしろ、予選でやってたネタは「過剰な"多様性への配慮"」を面白さにしてて決勝とコンセプトが逆。河本さんの「ボケ自覚無いボケ」も、井口さんの「ツッコミ自覚あり過ぎるツッコミ(によって最終的に何も言えなくなる)」も、キャラクター軸に変化がないのが凄い。

これも。皮肉が効いてて面白いですよね。しかも決勝では「配慮しないという配慮」に舵を切る事によって井口さんの攻撃性が増して、結果優勝してるのも興味深い。ウエストランドに拒否反応示してる人や、マイノリティへの意識を論じてる社会批評家的な方々こそ、見てほしい。

 

河本にあって素人にない

ウエストランドANNやノブロックTVとか見てると、ウエストランドがやってるお笑いって「悪口」じゃなくて「素人いじり」なんだなと思いました。

痛快な毒舌というよりも、対象を限定してツッコミによっていじってる。

だから禁じ手感、御法度感があって面白いんだと思う。しかも河本さんが素人側にいる。

 

ウエストランドの潜伏期間が長かったイメージって、この河本さんの「素人性」みたいなものを矢面に置いてるポジショニングだからだと感じます。バナナマンがまず日村さんの不細工キャラを押してたように。オリラジがまず藤森さんのチャラ男を押してたように。素人が前線に立ってるフォーメーション。

だからこそ、笑っていいとものオーディションで河本さんのムチャクチャやる感じがウケて採用されたというエピソードが立脚してるんだとも感じます。芸人らしからぬ素人自我の精神が先行してるので、それが通用してもしなくても井口さんのメタ視点込みのツッコミによってどっちにも成立させれる構造。

 

でもそれって諸刃の剣感も拭えなくて、

ようは「素人の立ち位置」に居続ける事が要にもなっちゃってるので、どうしたって内輪ウケの地場が強くなっちゃう。

その輪を広げるのに時間が掛かったし、今もまだある程度の批難(という名の外側からの反応)が摩擦として無いといけない性質の笑いだと思います。

 

なので、河本さんの色気ってそういう素人性のある種の刹那感を自覚してるところに正体があると感じる。河本さんは、あらゆる面で素人性が強いけど「自虐」は言うんです。そこに関してはサディスティックだと思う。その瞬間は、すぐ側に居ると思ってた河本さんに「お前も素人だろ」って言われてる気分。

 

 

↑これって、河本さんをいじってるようで、太田光代さんをいじってるし、もっと言えば太田光さんをいじってるツッコミだと思う。しかも神田伯山さんが「ピカソ芸」っていじるのよりも、もっと俯瞰して突き放してる素人性への言及。冷めた目、斜めから世の中を見ようとする芸人自我自体をいじってる。

 

それらを考えてると、改めてウエストランドという漫才師はその素人性の塊である河本さんをボケに配置してる事が凄いと思います。

(昨今のお笑いはもはやボケツッコミの二元論で語れないですが…)

 

 

いいですか皆さん、

これって、我々素人は

「ボケ」だと言われてるようなものですよ。

 

我々は河本さんなんだ…