ちいかわ=弱者論


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「ちいかわ」が好きで、よく読んでいます。

漫画家ナガノ先生のTwitter発の漫画、

グッズもたくさんあって、老若男女から幅広く愛されてて大人気です。

 

 

 

ほのぼのしたキャラクターと、可愛らしい世界観、とは裏腹に、実は殺伐とした描写や設定が、時々垣間見れて、その物語への読者の反応や考察も込みで、より一層楽しめるという、SNSエンターテイメント になっていると感じます。

自分も、そんなゾクゾクするような、ちいかわワールドと登場人物の心理描写に、一喜一憂しながら、Twitterで読むのにちょうど良いサイズ感のストーリー進展を、味わってきました。

 

 

乱立する考察動画や、増殖するコラボ商品に、この世が「ちいかわワールド」に突入してしまったかのような不思議な気分を覚えながらも、ぼんやりとそれらを眺めている内に、とりとめのない事をいくつか想い巡らせました。それを書いてゆこうと思います。

 

※ストーリー考察や、キャラクター愛を語るような文章ではなく、個人的に漠然と思った事をTwitterで呟き溜めてたので、それをまとめたものになります。

 

目次

 

なんか "小さくて" かわいいやつ

これは、読んでて、常々感じている事です。

 

 

こういう、児童向け的なキャラクターが、"国民性のようなもの"を獲得してゆく中で、癖の強い部分が削ぎ落とされて、結果、可愛らしくなる、という事は今までも数えきれない程あったと思うのですが、「ちいかわ」は最初からそれを構造的に持ち合わせていると感じます。

丸っこくて、瞳がつぶらで、声がか細い。

 

弱者性がキャラの魅力に、前提段階で直結してる。

 

 

潜在的な弱者需要のようなものが、上がってきている気がしています。

例えば、時代を遡って、ドラえもんサザエさんクレヨンしんちゃんちびまる子ちゃん、が漫画段階だった時の、キャラクター性や絵柄と比較してみると、ちいかわのそれより、「あざとく」ないんです。

 

なんかもっと朴訥で、生々しくて、弱者性とは違う、生物としての社会的な愛嬌が舌触りとしてある感じ。そんな絵柄が多い気がします。

時代によって「親しみやすさ」の定義ごと変わっていたり、漫画表現の技術や機材の進歩など、関係あるのは、もちろんなのですが、そこに何らかの社会通念の経年変化も感じます。直結する「可愛いさ」の先鋭化、抽出加減の高次元化。キャラが「可愛いさ」しか、求められてなくて、それによって原材料である「弱さ」の成分が濃度として高まってるような感じ。

 

 

「安心して虐げられる弱者性」は

「安心して可愛がれるキャラクター性」と

繋がっていると思います。

 

「弱者だから毒吐いても許される」

「弱者に毒吐いたら許されない」という

相互作用で、炎上エンタメ的なものは成り立ってると思います。

 

ちいかわは、その構造原理を「可愛いさ」に特化させて、その部分を作品に仕上げているのではないでしょうか。

 

 

 

「愛玩」「共感」「加虐」

これも、ずっと感じています。

 

特に「共感」が分かりやすいと思います。

というか、そこに関しては、Twitterというツール自体が、かなり共感装置として磐石なので、ちいかわ以外のコンテンツも、Twitter発祥だとそういう支持を集めがちだと思います。

 

「加虐」

精神的にも、肉体的にも、基本的に主人公である、ちいかわに向けて、それは行使されてて、その時「かわいそう」だと共感すると同時に、「いいぞもっとやれ」的な加虐者側の立場への共感装置として、特に初期の頃は、うさぎと、ハチワレは、そういう役割として存在していたと思います。

 

「愛玩」

これは、漫画という表現法方、そこに用いられるストーリーに対して、「キャラクター」という概念が、そもそも愛玩性を持っています。それを、より強調してゆくと、コミュニケーションが排されるという現象だと感じます。

 

 

こういった循環性の中に、漫画のジャンルとしての表現パターンも見受けられる気がします。

いわゆるONE PIECE等の、戦闘シーンがあるタイプの漫画。ちいかわを読んでて、最初に意外性を感じる、一番大きなフックとなる要素だと思います。

あたしンち

こういう、あるあるネタっぽい話が、ちいかわのパブリックイメージとも結び付いてるスタンダードな要素のひとつだと感じます。

 

 

蛭子能収

世界観自体はシュール系ナンセンス系抽象的なギャグ漫画っぽい。

そういった作風って、作者の精神状態が反映されてるものだと思うので、大衆性を高めてゆくとエピソード的になるんじゃないかな、と思います。

榎本俊二福満しげゆき、とかの不条理漫画がそれに該当してると感じます。

榎本俊二

福満しげゆき

ちいかわ にも、その要素は感じられます。

 

どの要素で楽しんでるかが、読者によってかなり別れているのに、ひとつのストーリーとして成立しているところに、凄みがあります。

 

 

SNS漫画との比較

犬のかがやき

 

100日後に死ぬワニ

 

おぱんちゅうさぎ

 

わたサバ

 

 

あと、それらのバランスを全部反転させたものが、「地元最高!」だと思っています。逆ちいかわ。

 

地元最高!

殺伐とした弱肉強食のアングラ世界に、どうしようもない可愛らしさが横たわっているような漫画です。

 

 

さて、

こうして見比べてみて、なんとなく感じるのは、いずれにせよ、なんらかの弱者性。非常にザックリとした見立てですが、上記した漫画達は、「愛玩」「共感」「加虐」要素が、入っていて、それは「弱者性」を前提にしたものだと感じています。

 

もちろん、そういった方程式めいたものは昔からあるでしょうし、これらの作品は、SNS浸透以降に登場しただけに過ぎないという事でもあるので、こじつけ的でもあると自覚しています。

 

ただ、その「共感」であったり「加虐」であったりは、近年、どんどんピンポイント的に描かれていってるとも感じています。いわゆる「繊細さん」的な、あるあるネタは、その解像度が上がってゆくにつれ、普遍性も強まってゆき、参加人数と共に、社会生活や人間関係、果ては自己啓発的なものも含んだ、自我の形成に対しても「マニュアル化」が促進されていってるような自然現象を感じます。

仲間内での言葉遣いですら、10年前より公衆意識的な道徳心が働いてしまう人も、少なくないのかもしれません。

 

もしくは、「地元最高!」のように、社会基盤的なゾーンに置いての弱者性を、メタファーとして描いている、との捉え方も出来るとは思います。(そこに関しては、後天的な要素だとも感じます。描いてゆく内に世界観が深まってルール設定が出来上がっていったグルーヴのようなものを感じるからです。)

 

それは善悪両面を持ちながら、SNSの浸透と共に、高度化しているコミュニケーション形態が、第三次産業の発展に影響されながら、構築されていった「社会芸術の表れ」の一部でもあるのだと感じます。

 

ちいかわと推し文化

また、漫画表現の外側にも、それらの影響は拡がっていると感じます。

 

これこそ、なんて言えばいいのか、言語化が難しいのですが、本当に似たような、なんとも言えない気持ちになるんです。

 

ロングコートダディだけが、該当するわけではないですが、お笑い芸人やテレビタレントも、そういった「推し文化」的な需要を理解した上で、エンタメとして振る舞っているような瞬間を、見ていて多々感じます。

 

「推し」なる言葉が、いわゆる「ファン」と違って、自己規定ではなく、対象の私物化、的な意味合いが発生していると思います。

 

また、推す側だけでなく、

推される側からの視点を想像してみると、自己表現の中に「弱者性」を用いる事でのリスクヘッジと、逆を言えば、搾取構造にどう身を置くかの判断が、求められている、という事でもあるのではないでしょうか。

 

そして、これはエンタメだけの話ではなく、日常のコミュニケーションや、社会構造の内部に、組み込まれていっている要素だとも個人的には感じています。

 

人間の「ちいかわ化」とも呼べるかもしれません。

 

 

また、そういった「推し」的な支持の文脈の中には、副産物として「炎上」的なものも複雑なバランスで組み込まれていると感じます。

 

「推し」の敵、「推し」に裏切られた、「推し」を止める(変える)、「顔推し」「箱推し」、リアコ、同担拒否、検索避け、

 

などの概念は、対象への愛玩と同時並行で、対象外への防御的加虐を、若干孕んでいると感じる傾向もあるように思えてしまいます。(推すこと自体が悪いわけではありません)

 

そういった反比例性を、作品の中でキャラに背負わせて描く事で循環させる骨組みを、ちいかわ、まどマギCCさくら、などには感じます。「闇落ち」の全体像化ともでも言えましょうか。「闇推し」とでも略しちゃえそうです。

 

そういう意味では、

やっぱり「弱者」という概念そのものには

セットで「強者」という概念が存在している

 

という事でもあるのかなと感じます。

 

「でかつよ」や「鎧さん」が描かれるの必然なのかもしれません。

 

まとめ

ちいかわの「弱者性」を見ている時

読者は「強者」に成ってしまうし、

 

この作品がここまでのムーブメントを生んでいる事自体に、圧倒的な「強者性」が発生してもいます。

 

そう捉えてゆくと、それを享受している我々 消費者の方が「弱者」と言えるのかもしれません。

 

そこにあるのは、「弱者」「強者」の

表裏一体性です。

 

 

なんか、いろいろ考えたりしましたが、

 

ちいかわの「可愛いさ」を見てたら、どうでもよくなってきました。

 

これからも、読みます。