「ちいかわ」が好きで、よく読んでいます。
漫画家ナガノ先生のTwitter発の漫画、
グッズもたくさんあって、老若男女から幅広く愛されてて大人気です。
ねむりたい pic.twitter.com/XmpsGwWQ3v
— ちいかわ💫アニメ火金 (@ngnchiikawa) 2020年1月21日
ほのぼのしたキャラクターと、可愛らしい世界観、とは裏腹に、実は殺伐とした描写や設定が、時々垣間見れて、その物語への読者の反応や考察も込みで、より一層楽しめるという、SNSエンターテイメント になっていると感じます。
— ちいかわ💫アニメ火金 (@ngnchiikawa) 2021年4月24日
自分も、そんなゾクゾクするような、ちいかわワールドと登場人物の心理描写に、一喜一憂しながら、Twitterで読むのにちょうど良いサイズ感のストーリー進展を、味わってきました。
乱立する考察動画や、増殖するコラボ商品に、この世が「ちいかわワールド」に突入してしまったかのような不思議な気分を覚えながらも、ぼんやりとそれらを眺めている内に、とりとめのない事をいくつか想い巡らせました。それを書いてゆこうと思います。
※ストーリー考察や、キャラクター愛を語るような文章ではなく、個人的に漠然と思った事をTwitterで呟き溜めてたので、それをまとめたものになります。
目次
なんか "小さくて" かわいいやつ
ちいかわ は、
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
「可愛い」じゃなくて
「小さい」の方に、価値が生じている。
これは、読んでて、常々感じている事です。
「ゆめかわ」「グロかわ」「キモかわ」とか、今までも色々あったわけですが、それらは全部
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
「可愛くない物」+「可愛い」=「◯◯かわ」
という何がしかの対象の中に可愛さを見いだしてる概念。
でも、「ちいかわ」は「小さい」+「可愛い」なので、あんまりお互いが分離してない。
「小ささ」の中に「可愛いさ」は、割りと初めから含まれてると感じます。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
こういう、児童向け的なキャラクターが、"国民性のようなもの"を獲得してゆく中で、癖の強い部分が削ぎ落とされて、結果、可愛らしくなる、という事は今までも数えきれない程あったと思うのですが、「ちいかわ」は最初からそれを構造的に持ち合わせていると感じます。
丸っこくて、瞳がつぶらで、声がか細い。
弱者性がキャラの魅力に、前提段階で直結してる。
これは、「可愛いさ」の価値高騰と、「小ささ」への消費構造の表面化だとも思う。「小ささ」の持つ弱者性、それをコンテンツとして取り扱う事で発生する「共感」と「加虐」の、両方美味しいとこどりを出来ている。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
潜在的な弱者需要のようなものが、上がってきている気がしています。
例えば、時代を遡って、ドラえもんやサザエさん、クレヨンしんちゃん、ちびまる子ちゃん、が漫画段階だった時の、キャラクター性や絵柄と比較してみると、ちいかわのそれより、「あざとく」ないんです。
50年前の連載初期風のドラえもんの漫画です。1/2#ドラえもん#ドラえもん50周年#藤子・F・不二雄 pic.twitter.com/P3McjwtRMx
— きのしき (@Vd3Dr) 2020年8月16日
うちのばあちゃんの遺品を整理しているのですが、当時の新聞4コマの切り抜きがいっぱい出てきた。クリちゃんとサザエさん。 pic.twitter.com/MWbYoTTBB2
— 飛白(アルコールの奴隷) (@kasuri01) 2023年2月26日
初期のクレしん不謹慎過ぎて草 pic.twitter.com/ynauDzp6qM
— スタイリッシュ土下座@5月11日はコッコロママの誕生日 (@dogeza_anime931) 2021年11月1日
ちびまる子ちゃんの成人式の回ね、かすかに覚えてるわw
— そるでぃ (@swordy_nico) 2023年1月13日
でも今更ルッキズムどうこう言われてもなあ、元々こういう漫画やぞww pic.twitter.com/8SsFtQ5R3M
なんかもっと朴訥で、生々しくて、弱者性とは違う、生物としての社会的な愛嬌が舌触りとしてある感じ。そんな絵柄が多い気がします。
— ちいかわ💫アニメ火金 (@ngnchiikawa) 2020年1月27日
時代によって「親しみやすさ」の定義ごと変わっていたり、漫画表現の技術や機材の進歩など、関係あるのは、もちろんなのですが、そこに何らかの社会通念の経年変化も感じます。直結する「可愛いさ」の先鋭化、抽出加減の高次元化。キャラが「可愛いさ」しか、求められてなくて、それによって原材料である「弱さ」の成分が濃度として高まってるような感じ。
ウエストランド井口という「小男」だからこそ、毒舌漫才でM-1優勝したという言説や、
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
「170cm人権ない」発言で失墜したプロゲーマーのたぬかな等、
多様性が浸透したが故に、大衆の加虐欲求は、「単純に反撃されても大丈夫そう」という「小ささ」に向かっている、という、事なのかも。原始的進化。
「安心して虐げられる弱者性」は
「安心して可愛がれるキャラクター性」と
繋がっていると思います。
「弱者だから毒吐いても許される」
「弱者に毒吐いたら許されない」という
相互作用で、炎上エンタメ的なものは成り立ってると思います。
ちいかわは、その構造原理を「可愛いさ」に特化させて、その部分を作品に仕上げているのではないでしょうか。
作者のナガノ先生も、そこらへん自覚的な気がします。ちいかわって、なんかNTRの主人公みたいですよね。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
「愛玩」「共感」「加虐」
ちいかわ のリプ欄を見てると、その楽しみ方がそれぞれで違うのが感じれます。「愛玩」「共感」「加虐」に分けれると思う。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
これも、ずっと感じています。
「愛玩」…単純に可愛がってる。モノ化。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
「共感」…自己投影してる。ヒト化。
「加虐」…潜在的な暴力性の発露。神の視点。
主要3キャラもグラデーション的にこの3タイプに分類出来ると思います。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
ちいかわ…「愛玩」「共感」
ハチワレ…「共感」「加虐」
うさぎ …「加虐」「愛玩」
特に「共感」が分かりやすいと思います。
というか、そこに関しては、Twitterというツール自体が、かなり共感装置として磐石なので、ちいかわ以外のコンテンツも、Twitter発祥だとそういう支持を集めがちだと思います。
「加虐」
この加虐ってのが、作品的に分かりやすく描いていないと思うので、補足説明(あくまで個人の感想です)
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
ハチワレは、無意識的な加虐(草むしり検定で自分だけ受かっちゃったり、スフィンクスに声掛けたり)
うさぎは、意図的な加虐(初期の頃のちいかわへの物理的な攻撃)
という機能を持ってる。
精神的にも、肉体的にも、基本的に主人公である、ちいかわに向けて、それは行使されてて、その時「かわいそう」だと共感すると同時に、「いいぞもっとやれ」的な加虐者側の立場への共感装置として、特に初期の頃は、うさぎと、ハチワレは、そういう役割として存在していたと思います。
「愛玩」
あと、愛玩性は分かりやすく、キャラとして喋れない。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
これは、漫画という表現法方、そこに用いられるストーリーに対して、「キャラクター」という概念が、そもそも愛玩性を持っています。それを、より強調してゆくと、コミュニケーションが排されるという現象だと感じます。
それぞれの要素も、完璧に分離しているわけでなく、例えば「加虐」的に楽しんでいる読者は、同時に「愛玩」的なゾーンとも混濁してゆくとも思います。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
「愛玩」→「共感」
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
「共感」→「加虐」
「加虐」→「愛玩」という循環性もある。
単純に可愛さで楽しんでると、その弱さに共感してゆく事になるし、共感の琴線を高めてゆくと、安全圏からの加虐的快楽を覚えてゆくし、加虐に没入してゆくと、可哀想さが可愛いさと地続きなのに気付いてゆく。
こういった循環性の中に、漫画のジャンルとしての表現パターンも見受けられる気がします。
「共感」と「加虐」の中間領域に、
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
少年漫画的な成長譚が含まれてる。
— ちいかわ💫アニメ火金 (@ngnchiikawa) 2023年1月29日
いわゆるONE PIECE等の、戦闘シーンがあるタイプの漫画。ちいかわを読んでて、最初に意外性を感じる、一番大きなフックとなる要素だと思います。
「愛玩」「共感」の領域に、ほのぼの日常エッセイ系漫画(あたしんち的なジャンル)がエッセンスとして含まれてる。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
「加虐」から「愛玩」は、捉え方が難しいけど、エログロナンセンス系(蛭子能収さんの漫画とか)みたいな要素も感じ取れる。
あたしンちは死ぬほど大好き。これも全巻集めてたレベルで。今も数巻残ってる。個人的には、この漫画を好きな人は人として信用出来る、って感じ。ネタじゃなくマジでw pic.twitter.com/iQcRjI7o1f
— 進撃のKingJames👑🦶🏿 (@daguba1989) 2021年3月18日
— ちいかわ💫アニメ火金 (@ngnchiikawa) 2021年2月28日
こういう、あるあるネタっぽい話が、ちいかわのパブリックイメージとも結び付いてるスタンダードな要素のひとつだと感じます。
#蛭子能収
— CRISIS1985 (@sa82543) 2019年11月3日
TVでは一見人畜無害なおじさんだが、言動がアレな人として有名な蛭子能収。では、漫画家としてはどんな作品を描いていたのか? 初期の作品集では、会社での競艇中に娘がDVで死亡して、父親が地獄に落ちる。 pic.twitter.com/Q1Po2EefxK
もしくは、「DV彼氏漫画」「ADHD子育て奮闘記」「タワマン文学的な自虐」等のような、不幸のネタ化みたいなTwitter王道コンテンツと近いのかもしれません。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
世界観自体はシュール系ナンセンス系抽象的なギャグ漫画っぽい。
そういった作風って、作者の精神状態が反映されてるものだと思うので、大衆性を高めてゆくとエピソード的になるんじゃないかな、と思います。
榎本俊二、福満しげゆき、とかの不条理漫画がそれに該当してると感じます。
福満しげゆき先生の初単行本『まだ旅立ってもいないのに』を読み返してたけど、やっぱ震えるほどの名作…https://t.co/iDdcy0ApSb pic.twitter.com/E85zWHYb5o
— まぐれもの (@maGuremono) 2020年3月23日
ちいかわ にも、その要素は感じられます。
— ちいかわ💫アニメ火金 (@ngnchiikawa) 2023年3月2日
どの要素で楽しんでるかが、読者によってかなり別れているのに、ひとつのストーリーとして成立しているところに、凄みがあります。
つまり、全部入ってる。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
最強 ゴツ盛りコンテンツ。
ちいかわ は、 全然
「小さくて可愛いやつ」
じゃない と思う。
他SNS漫画との比較
あと、この「加虐」を単純な破壊衝動に変換して、「共感」→「破壊」→「愛玩」というような順序に並べ替えてるのが、犬のかがやき だと思います。 https://t.co/Xfj6nSU10J
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
犬のかがやき
1日ごとに性格が悪くなるエッセイスト 1日目 pic.twitter.com/iydF4OAcra
— 犬のかがやき (@inunokagayaki) 2023年1月3日
「破滅」→「愛玩」→「共感」
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年3月1日
みたいな順序を辿ったのが、
100日後に死ぬワニ だと思う。
たぶん最初は「このワニ死ぬんだw」って面白さ。結果、大共感を経て、破滅衝動的な着地に循環していった事も含めて、興味深くて面白かったです。
100日後に死ぬワニ
「100日後に死ぬワニ」
— きくちゆうき (@yuukikikuchi) 2019年12月16日
1日目から4日目#ワニが死ぬ日 pic.twitter.com/0dcKrWxFCX
ちいかわの可哀想さはコント師の構築。ストーリーの積み重ねで被虐性の共感に厚みを持たせてると思う。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年1月19日
おぱんちゅうさぎの可哀想さは大喜利の羅列。ギャグそのものの中核に加虐性が鎮座しててそれを面白がってると思う。
SMだとしたら真逆。
おぱんちゅうさぎ
— おぱんちゅうさぎ (@opanchu_usagi_) 2023年1月11日
「わたサバ」と「ちいかわ」の類似性。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年1月3日
「私ってサバサバしてるから」という自己自認と、その根元的な鈍感力によって周囲と解離する物語構造と
「なんかちいさくてかわいいやつ」という存在になりたい作者の願望と、その可愛いさを ある種の加虐精神によって維持する方法論は
似てると思う。
わたサバ
どちらもキャラの立脚とその外側のズレによって存在価値が規定され相対化を成し世界観に循環されてる。
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年1月3日
これらがバナー広告やTwitter漫画でヒットしている理由を世代論とかにこじつけると、やっぱり「陰キャ陽キャ」「コミュ力」的な社会自我の規定水準の高騰によって共感を誘ってるんじゃないかな。
網浜さんを「いじめてる」事で、あの性格の暴走みたいなものが魅力を放ってるとも思うし
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年1月3日
ちいかわが「乗り越えてく」事で、次編の可愛さを引き立てる煽りとして残虐さが増してってるとも思うし
主キャラが交換可能な性質を持ってる。そして、読者は多かれ少なかれ、切り離しつつ自己投影してる。
そこには、
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年1月3日
エッセイ漫画やほのぼの漫画みたいなジャンルなのに
「少年漫画」っぽい舌触りがある。
成長譚と敵の半永久的な強化、があって それが「自分とそれ以外」に規定されてる。つまり「個人と社会」みたいな構図でなおかつ敵対関係。これが今の時代っぽいなと感じます。
ちいかわのキメラ化した存在が、
— 視力 (@shi_ryoku) 2023年1月3日
網浜さんに見えるし
自サバ女の周りがいい人過ぎ問題は、
あの子目線から眺めたちいかわ達に見える。
あと、それらのバランスを全部反転させたものが、「地元最高!」だと思っています。逆ちいかわ。
地元最高!
第3話 無知と救い pic.twitter.com/OOgfJkQYws
— 地元最高! (@JimotoSaiko) 2021年2月28日
殺伐とした弱肉強食のアングラ世界に、どうしようもない可愛らしさが横たわっているような漫画です。
さて、
こうして見比べてみて、なんとなく感じるのは、いずれにせよ、なんらかの弱者性。非常にザックリとした見立てですが、上記した漫画達は、「愛玩」「共感」「加虐」要素が、入っていて、それは「弱者性」を前提にしたものだと感じています。
もちろん、そういった方程式めいたものは昔からあるでしょうし、これらの作品は、SNS浸透以降に登場しただけに過ぎないという事でもあるので、こじつけ的でもあると自覚しています。
ただ、その「共感」であったり「加虐」であったりは、近年、どんどんピンポイント的に描かれていってるとも感じています。いわゆる「繊細さん」的な、あるあるネタは、その解像度が上がってゆくにつれ、普遍性も強まってゆき、参加人数と共に、社会生活や人間関係、果ては自己啓発的なものも含んだ、自我の形成に対しても「マニュアル化」が促進されていってるような自然現象を感じます。
仲間内での言葉遣いですら、10年前より公衆意識的な道徳心が働いてしまう人も、少なくないのかもしれません。
もしくは、「地元最高!」のように、社会基盤的なゾーンに置いての弱者性を、メタファーとして描いている、との捉え方も出来るとは思います。(そこに関しては、後天的な要素だとも感じます。描いてゆく内に世界観が深まってルール設定が出来上がっていったグルーヴのようなものを感じるからです。)
それは善悪両面を持ちながら、SNSの浸透と共に、高度化しているコミュニケーション形態が、第三次産業の発展に影響されながら、構築されていった「社会芸術の表れ」の一部でもあるのだと感じます。
ちいかわと推し文化
お笑いだけじゃないとは思うのですが、推し文化とか仲良しエンタメみたいなものを見てると「ちいかわ」的な暴力性を感じます。表面的には無害感を纏って癒し系コンテンツとして打ち出しながら「癒し」であるという事の本質的な加虐構造を受け手にうっすら理解させるような高度なやり口に感じてしまう。
— 視力 (@shi_ryoku) 2022年12月30日
また、漫画表現の外側にも、それらの影響は拡がっていると感じます。
「漫才師の解散話」「BL文化の盛り上がり」「ちいかわのリプ欄」は、見た時全部同じ気持ちになる。
— 視力 (@shi_ryoku) 2022年12月17日
これこそ、なんて言えばいいのか、言語化が難しいのですが、本当に似たような、なんとも言えない気持ちになるんです。
この「ちいかわ的な暴力性」って、いわゆる「誰も傷付けない系お笑い」と密接だと感じていまして。この系統で今一番その両面を使いこなしてるのがロングコートダディだと思います。基本的に兎さんがうっすらとナメられる事を前提としてるような造りが多いと思います。本人の自覚も強い気がします。 https://t.co/JjrWtYLTQ4
— 視力 (@shi_ryoku) 2022年12月30日
兎さんの「可愛さ」って
— 視力 (@shi_ryoku) 2022年12月30日
ちいかわのモモンガ みたいな可愛さなんだよなぁ…
自覚している事の天然性という複雑な自我構造をしてる。
— ちいかわ💫アニメ火金 (@ngnchiikawa) 2021年9月22日
ロングコートダディだけが、該当するわけではないですが、お笑い芸人やテレビタレントも、そういった「推し文化」的な需要を理解した上で、エンタメとして振る舞っているような瞬間を、見ていて多々感じます。
「推し」なる言葉が、いわゆる「ファン」と違って、自己規定ではなく、対象の私物化、的な意味合いが発生していると思います。
また、推す側だけでなく、
推される側からの視点を想像してみると、自己表現の中に「弱者性」を用いる事でのリスクヘッジと、逆を言えば、搾取構造にどう身を置くかの判断が、求められている、という事でもあるのではないでしょうか。
そして、これはエンタメだけの話ではなく、日常のコミュニケーションや、社会構造の内部に、組み込まれていっている要素だとも個人的には感じています。
人間の「ちいかわ化」とも呼べるかもしれません。
昔ブンチョウのつがいを飼ってたんですが、赤ちゃん鳥が生まれたらお父さん鳥がその子をつついたりして苛めちゃうんですね。なので籠を分けてお父さん鳥を隔離した事があって。生物学的にどうかは知見が無いのですが、「子ごろし」みたいな感覚ってある程度は雄の本能なのかな?とその時感じました。 https://t.co/jBHVh4yDcS
— 視力 (@shi_ryoku) 2022年11月10日
で、これに似た感触がアニメとか見てる時にもあって、作者が男性なのかはわからないのですが、いわゆる「闇落ち」的な描写ってこういう領域の感覚な気がする。「まどかマギカ」の魔女とか「ちいかわ」のキメラ化とか。発想として雄っぽい。あくまで個人の感想ですが。
— 視力 (@shi_ryoku) 2022年11月10日
また、そういった「推し」的な支持の文脈の中には、副産物として「炎上」的なものも複雑なバランスで組み込まれていると感じます。
「推し」の敵、「推し」に裏切られた、「推し」を止める(変える)、「顔推し」「箱推し」、リアコ、同担拒否、検索避け、
などの概念は、対象への愛玩と同時並行で、対象外への防御的加虐を、若干孕んでいると感じる傾向もあるように思えてしまいます。(推すこと自体が悪いわけではありません)
そういった反比例性を、作品の中でキャラに背負わせて描く事で循環させる骨組みを、ちいかわ、まどマギ、CCさくら、などには感じます。「闇落ち」の全体像化ともでも言えましょうか。「闇推し」とでも略しちゃえそうです。
そういう意味では、
やっぱり「弱者」という概念そのものには
セットで「強者」という概念が存在している
という事でもあるのかなと感じます。
「でかつよ」や「鎧さん」が描かれるの必然なのかもしれません。
🏃♂️ pic.twitter.com/Jaaw59nP3Z
— ちいかわ💫アニメ火金 (@ngnchiikawa) 2022年12月12日
— ちいかわ💫アニメ火金 (@ngnchiikawa) 2021年2月1日
まとめ
ちいかわの「弱者性」を見ている時
読者は「強者」に成ってしまうし、
この作品がここまでのムーブメントを生んでいる事自体に、圧倒的な「強者性」が発生してもいます。
そう捉えてゆくと、それを享受している我々 消費者の方が「弱者」と言えるのかもしれません。
そこにあるのは、「弱者」「強者」の
表裏一体性です。
こういう風に pic.twitter.com/nDl7AeWD5F
— ちいかわ💫アニメ火金 (@ngnchiikawa) 2020年1月4日
なんか、いろいろ考えたりしましたが、
ちいかわの「可愛いさ」を見てたら、どうでもよくなってきました。
これからも、読みます。