KILLAH KUTS

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KILLAH KUTSを観る | Prime Video

 

藤井健太郎の『KILLAH KUTS』を見ました。

面白かったです。

 

以下、ネタバレ感想

 

『KILLAH KUTS』感想

 

スポーツスタンガン

シューゴさんとみちおさんがスタンガン落として絶望するシーン(特にみなみかわさんが二刀流になって責めてくところの怖さ)、
山根さんと谷さんがしんいちさんを2VS1で責めるところ、
あとフィジカル面で突出してたわけじゃない大崎さんが一番姑息な手を使ってブーイングを浴びながらヒール的に優勝しちゃう事自体、とかのシーンが面白かったです。

 

設楽と暴力

設楽さんが久々にサディスティックバラエティ企画に参加するという事でバナナマンフリークを中心に話題になっています。

その話題の中で言及されてた
バナナマンが過去やっていた「スタンガンを使った笑い」(それがあったから設楽起用なんじゃないか?説)は、おそらく2006年頃に開催された単独ライブkurukuru birdでの幕間映像「スタンガン3つの検証」から来てるんじゃないかなと思います(あとそれ以前からも幕間でスタンガンを使った映像を流してるそう)

 

 

あと、2011年emerald musicという公演でスタンガンを使ったコントも披露しています

 

あと、
スタンガンではないですが2003年頃epoch TV squareというBSフジの番組のDVD発売イベントか何かで行われたネタで、
設楽さんが"鞭"を持って「小木さん、矢作さん、日村さんの中で誰がこの鞭で叩かれるべきか」言い争わさせるというコントがあったというレポートを当時の書き起こしブログで見た記憶があります

 

他にも設楽×武器(それを体罰行使する権限)がある企画やネタはいっぱいあると思うので、ぜひ思い出したらぜひコメント欄とかに貼って下さいませ。

改めて設楽さんのドSキャラ的なもの、それが特異的だと思うのは、

「イニシアチブ(精神的優位性)」と
「バイオレンス(物理的暴力性)」が

両輪合わさってるところだと感じています。

例えば
インターネット、SNSの浸透で定番化したレスバトル的な言語的支配に特化したタイプのタレントだと西村博之呂布カルマ、あとテレビタレントだと田村淳や有吉弘行岩井勇気などのドッキリを仕掛けるマインドコントロール性や建設的議論とは若干毛色の違った単純なトークプロレスの強さなど、そういう「イニシアチブ」特化型での強いタイプは多々居るし、

逆に
シンプルに手が出るんじゃないかというフィジカル面での怖さ、その威圧感によって場を支配する浜田雅功石橋貴明島田紳助、ヒロミ、加藤浩次などの前時代的なテレビ芸能界に君臨してたタイプ、いわゆるロジカリストとは異なる原理で空間統制を成してたボス的な空気を纏った「バイオレンス」な面々は今のコンプライアンス全盛期で活躍するには場が限定されてゆく気がしますし、

そんな中でバナナマン設楽統という人は、そのどちらにも大きく針を振っていない代わりに「暴論」と「暴力」がどちらも許されてる、という狭間の中心に立っている絶妙なポジションに居続けてるなと思います。

 

 

もっと細かいニュアンスの話になりますが、

藤井さんは論理的思考や批評的な視点、建設的議論みたいなものを積み上げた結果、「暴力」「反倫理」的な面白さに辿り着いてる感触があるのですが、

設楽さんはむしろスタートが「日村さんがスタンガンで痺れてる姿を見てみたい」という発想と即効的なフットワークの軽さがあって、その時に威圧感や論理的思考を手探りで手に入れていってる即興芸な気がします。

つまり順序が逆で
設楽さんは暴力のあとに論理が入ってきて暴論を可能にさせてる感じな気がします
「この人ほんとにビンタするからなぁ…」という実績(?)が過去にあるから暴論が成立してるし、それによって周囲は設楽さんをロジカルだと思い込む原理が働いてる。

 

そんな設楽さんと藤井さんが組み合わさった事でこの企画が実現し、ビリビリとした刺激が電流の如くほと走っていました。

 

麻薬ダイイングメッセージ

自分が視聴したタイミングが配信再会後だったので、カットされた該当箇所見れなかったです。
でもそれを差し引いても面白かったです。

それぞれの芸人さんの意識が途絶える瞬間の淵で格闘している様は見応えが凄まじかったです。

伊集院光さんの解説も慎重にバランスを取りながら繊細な言語補填に職人の技を見ました。

 

以下、SNSでの様々な反応

 

 

ラランドニシダ昏睡ゴシップ

 

 

 

 


日本麻酔科学会

 

 

 

政治信条レース

こちらもシンプルながら面白かったです。

というか、気にせず見たら普通のロケでのゲームバラエティ番組として楽しめちゃう。

ただ、そこに見る側が勝手に何かを見出そうとすると、それがうっすら表出してくるという底意地の悪いお笑いが展開されてました。

なので「過激な事を言う」系の面白さではなく、世相や時事を皮肉ってるとかではなく、もっと言うと冷笑的なそれとも微妙に違う、“すごく高度化された素人いじり”みたいな企画だったと思います。


河元さんが「日本バンザーイ」って言うところ、
岸さんが高野さんにちょっとキレてるシーンをなぜかカットせず流してたところ、
カズレーザーさんの「白シャツに赤丸入れて日の丸にしましょう」「黒い服着てるのに右じゃないんだ、赤とかじゃないんだ」「左寄りの大学とかあれば学生に聞けば一発なんだけどな」「麻生太郎みてぇ、右だろ」「中央区入ってきたら右が多いんじゃねぇの」「(政治心情を話してる一般人に対して)よく喋るな」「ここは右絶対引かなきゃだから街宣車来るまで待ってた方が」「左利きなのに右なんだ」「アメリカ人なんて愛国心の塊だろ」とかのコメントが面白かったです。

 




童貞人狼

童貞人狼ももちろん面白かったです。

ただ、ぐんぴいさんとかがYouTubeでやってたりするので、これはこの規模感でやるならという事だなと思いました。

 

性的なネタの中でも、特に「童貞いじり」って、ここ数年で急速にセンシティブ化して地上波では取り扱いにくくなってるんだろうなと、なんとなく感じているのですが、だからこそそのジャンルの面白さの間口はネット上という水面下だとむしろ境界ギリギリまで裾野が広がっちゃってる気もします。

 

かつてはもっと明確な差別性みたいなものが笑いの中に含まれながら対象への蔑視、嘲笑、暴力性などが広い場所でも展開されていたと思います。

 

そこら辺のある種のノイズになりそうな今のバラエティトーク内でのいじりの矛先はかなり除去されていたとも見てて感じたりしました。

MC側のさらば青春の光も、童貞側の芸人さんも。

(と同時にそれはそこに当事者性意識の薄さがあるから成立しているものだとも思いますので、それを「透明化」だとも言えてはしまう。)

 

個人的には、割とすぐ人狼はこの人なんじゃないかな…?となんとなく思いながら見ててそれが当たっちゃってたので、もし次回もこの企画があるなら「もっとどっちか分からない」状態になりながら見たいなと思いました。

 

また、佐久間さんのYouTubeにも似た企画があって、そちらとも比較されてる方もチラホラいました。

 

以下、藤井さん単体に焦点を当ててみて、他製作者や過去の作品などを引き合いに出して、どういう面白さなのか考えてみようと思います。

 

 

藤井健太郎というプロデューサー

佐久間宣行との違い

佐久間さんと藤井さんの企画の構造って、ものによっては視聴者が「似てる」と反応する事もけっこう少なくないと感じています。

例えば、近年のヒット作「名探偵津田」は放送後、割と「ゴッドタンっぽい」という感想があったと記憶しています。

 

似たような構造で、
佐久間さんが即興劇を膨らませてゆくのに対して、
藤井健太郎さんは物語上の仕掛け部分を研ぎ澄ませてゆく方向に行ってる、
その違いが興味深いです。

 

 

佐久間さんはドッキリという"てい"(コント)で芸人が如何にノれるか、フザけられるか、という芸人への理解度が高いM的なプロデューサーだと思うのですが、

藤井さんはドッキリはドッキリであって、その企画の構造はちゃんと騙したり驚かしたりする事を目的とした上で「ドッキリとして"球種が変"」という部分で見る側を引っ張ってゆくのでかなり批評作家的な意識とその遂行のために芸人(の心理)はある程度駒であるというSっぽいプロデューサーなんだと感じています。

 

初期の頃からゴッドタンを見てると、なんとなくそのニュアンスって掴めると思うのですが、もう出演者も番組もあと佐久間さんも存在が大きくなってしまってるので、なかなかそのノリって視聴者と共有するのが難しくなってきている感はある気はします。

ゴッドタン初期のヒット企画に「おっぱい見せて」というシリーズがあります。

"「見せるわけない」という大前提"という部分を踏まえて、そのていで即興コントを見せられているという楽しみ方が佐久間さんの番組のメイン商品といった感じだと思います。
基本的に上記のブログの方みたいな目線の人から常連になってゆく傾向が佐久間さんの番組構造にはあると思います。

 

それらをまとめてゆくと、ある種「演者への追い込み」という点では、藤井健太郎さんやマッコイ斎藤さん、片岡飛鳥さんや土屋俊夫さん、テリー伊藤さんや田原総一郎さんとかよりも、一番内省に迫ってるタイプに感じています。

上記の人々はパフォーマンスも含めて倫理観を飛び越えることをショーにしててその上で「悪者役」をプロデューサーとしてある程度背負うムーブがあると感じます(あくまでムーブ、実際背負えているかは別)

ただ、佐久間さんはそうではないし、なんなら見てる側に「追い込んでいる」という認識すら与えていないところがあると思います(なので大衆が数で個人を追い詰めるという現象にはなりにくいではあると思う、でも密室的、内省的だからこそ濃密だし精神的な逃げ道が少なくなりがちではと感じます)

すっごい端的で雑に言うと
あちこちオードリー的なバラエティは、
「メンタルケア、カウンセリングショー」になってはいると言えちゃう。

(若林さんが中心で奉仕してる状態でもあるし、セーフティスポットして春日さんのポジションも存在してるけど)

若林さんの話運びははコーチングスキルと呼べてしまうとは思います。

 

寄り添ってはいるけど、それをショーにはしてる。

傷を癒しながら、その縫った傷口を開いて皆に見せてる。

心を開かせて、裸を商品にさせている。

 

とも言える面白さ。

 

藤井健太郎さんの追い込み方はそういう方向ではありません。

もっとなんというか、佐久間さんのそれより「実験」的な要素、単純に興味が強い感じがします。

非人道的ではあるが、だからこそ完全に本音を覆い隠したクロちゃんみたいな振る舞いで成立させることが出来しまう、その「現象」を「結果」として面白がる感じなのかなと思っています。

 

こちらは、水曜日のダウンタウンおぼんこぼん解散ドッキリの書き起こし感想ブログです。
佐久間さんの番組のように前提を踏まえてるというよりも、本当に「解散するかしないか」的なドキュメンタリー性で見ている人が多いんだと思います。

ただ、お笑い好きや見る人が見たら「これはドッキリであるという前提を芸人が踏まえた上でどう落とすか迷っている」のもうっすら感じられるようなギリギリのライン(だからこそ一周回ってドキュメンタリーにもなってる)という感じだと思います。

 

これがめちゃイケとか、電波少年とかにまでなってくると、「ドッキリだという事がかなりバレバレ」だとか「本当に無理難題を芸人に吹っかけてドキュメンタリー性のみで引っ張る」みたいな地点に到達してゆくのだと感じます。

なので
藤井健太郎さんの番組は
「佐久間さんの前提共有コント」と、
めちゃイケ電波少年とかのお笑い芸人主軸のドキュメンタリー」の、

ちょうど間くらいの領域を紡いでいると感じています。

 

 

↑これとかがそのちょうど間くらいの領域、初期の水ダウで話題になったやつの象徴的メタ視点だと思います。

ナレーションの「やはり構造部分にはツッコまない」という台詞が面白いです。

「(スケール的に)そんなわけない」という面白さ

「スケール的にそんなわけない」という視点のツッコミを用いれられるのは藤井さんの番組が一番持ってる特徴かもしれないですね。

佐久間さんはどうしても狭い地点に向かう(その代わりにその世界観周辺のセットやゲスト部分が膨らんでキス我慢movieやマジ歌選手権In武道館みたいになってゆく)

めちゃイケ電波少年はそもそもスケールが大きい事を芸人に吹っ掛ける(濱口ドッキリ○百日とか、猿岩石のヒッチハイクとか、その中での演じきりやドキュメンタリー性を見せてる)

名探偵津田や、クロちゃんドッキリシリーズ、おぼんこぼん解散ドッキリなどは、そもそも「そんな事すんなよ」という視点設計を土台にドッキリを仕掛けられてる芸人が分かりながら乗っかりつつ進んでゆく(視聴者もその芸人のスタンスを半分くらい理解しながら見ている)ので、笑わせてる箇所がめちゃくちゃメタ部分だと思います。

 

 

メタ的な箇所の確認として、タイトルに悪意が入ってるものが多いです。

それってバラエティ番組としてめちゃくちゃ"自己批評"的だと思います

あんまりテレビプロデューサーに居ないタイプだと感じています。

似たようなタイプって
フェイクドキュメンタリーを撮ってる時のマッコイ斎藤さんぐらいなんじゃないなかぁと感じています。

 

マッコイ斉藤との違い

マッコイさんもかなりメタ視点的なバラエティを作っていると思います。

 

 

これとか、たしかマッコイさんの番組で、毒舌前の有吉さんがけっこう過酷なロケやらされてたはずなんですが、

その企画構造が
藤井さんの「ラリアット不回避説」とかと似てると思うので、領域的に重なってるとこはありそうです。

 

ただ、マッコイさんは藤井さん程ロジカルさに執着してない気がします。

 

マッコイさんは視点設計的には「そんなわけないだろ」だけど、それがシンプルであとは芸人さんに丸投げって感じだから、

藤井さんの技法でめちゃイケ的なドキュメンタリー構造を作ろうとしてるって感じのバランスな気がします。

藤井さんが構造に対して理由や文脈をきちんと用意して固めてゆくのに対して、

逆に、マッコイさんの有吉を訴えるシリーズとかってただただ有吉さん一行がおっパブで戯れてたり、ラストシーンで飛躍していったり、無駄なカットや説明のない笑いがいっぱいあってそれが面白いです。

と、同時にそれが10年経ってTikTokとかに切り取られて「ぇ、有吉サイテー」ってコメントされて拡散とかされてて、有吉さん本人がラジオで注意するみたいな事がありました。
それもちょっとめちゃイケ電波少年的な、ある程度本気として受け取る成分の高い視聴者層とも隣接してて、
時代的に、藤井さんのように論理性を打ち出さないと炎上とも隣り合わせな面白さなんだろうなと感じます

名探偵津田も、「トリックとして雑だ」みたいな本気っぽい呟きがいくつかあった気がします。それにも藤井さんが先読みして弁明っぽい呟きをしていました。

 

 

そして、それは先読みのロジカルさが面白さに根ざされている事も意味してると思います。

そうなってくると「炎上避け」的な部分のパフォーマンスが商品価値として目立ってきがちになる気もしています。

論理で倫理をハックしているような。

 

その分かりやすい事例ひとつにエッグ矢沢さんとの件があると思います。

 

エッグ矢沢という事例

少し前に「水曜日のダウンタウン」ではなく「クイズ☆タレント名鑑」の情報原人という企画に参加していたエッグ矢沢さんのnoteが話題となっていました。

 

①〜③は有料

 

情報源人の件はなんか当時からけっこうグダグダな感じで後ろ向きな方向でネット上で少し話題になってた印象と、その後エッグ矢沢さんは単身でYouTuber的な活動にどんどん主軸を移して(移さざるを得なかったのかも?)そこでデカキンさんとかと初期段階でコラボしててHIKAKINさんがバズった流れでエッグさんもその余波で若干インフルエンサー化が促進したという、タレント名鑑とは別文脈で影響力を高めた形になってて「タフな人だなぁ」とぼんやり思ったのを覚えています。

このnoteの熱量でどんどん読ませる感じが単純にエンタメ的な読み物として面白かったし、最後らへんの結びは半分リアルな感情、半分お笑い的なコンテンツに出来たらいいなぁという葛藤、が混ぜこぜになってたような感じで、三ちゃん視点からのめちゃイケの話のような、

虚実妄言入り乱れドキュメントバラエティという感じになってるように思えました。

電波少年でのなすびさんからの流れ(もっと時代の空気的な流れで言うと、松本人志と文春裁判や、ジャニー喜多川性加害報道、さらに言うとガーシー議員や旧統一教会問題などとかも絡められてしまうような、メディアや権威機関に対する個人や周囲から告発によって影響がある海外からの見られ方という図式)でエッグ矢沢さんも良くも悪くも乗っかって書いてるんだろうな感じます。

 

そして、実際どうだったのかは分からないけれど、藤井さん側の視点に立つと

情報源人的な企画の面白さとして、こういう組み立て方になったんだろうなぁ…

という事情というか、思考の経路もそこはかとなく感じられます。

エッグ矢沢さんがこれを耐え続けないといけなかったとは思いませんが、この面白さを形にしようとした場合こういう実験遊びみたいな方法以外でどう構築すればいいのでしょうか?

このやり方のもっと安全性を考えられた形が、ななまがりの「新元号当てるまで脱出できない生活」というギャラクシー賞月間賞を獲った企画にも繋がっている気がします。

そう考えるとと、この企画趣旨の面白さは、ある程度「監禁」する事とセットであるのだろうし、その上でそれを成立させるための理由、言語的な補填、観衆の納得感を取り入れなければいけなくなるのだと思います。

それは(あくまでこういう企画がですが)結果、「炎上」的な拒絶反応にいかに近付き、そうならないか、が面白さそのものと肉薄、いや一体となってデカい塊になるようなイメージになります。

『KILLAH KUTS』という番組もその例外ではありません。

 

 

藤井健太郎さん的はこの件って、今後もスルーするような気もするし、
もしかしたらそれも含めてネタにしようと何かの番組で取り上げる可能性もゼロじゃない気がするし、

ただ個人的に感じるのは
藤井健太郎的な露悪と文脈理解バラエティ的なものって、ロンブー淳さんや有吉さんとか主にそういう裏笑い的な要素を顧客としても獲得できてる芸人さんが中心になって作られているので、たぶんクロちゃんとかがポップ層としてはギリギリで、
ダウンタウンがそこに居るのは、もう大御所として完全に売れきって冠として座っているから成立しているのであって、若手の頃の松本人志藤井健太郎さんの笑いがハマってたのか考えると微妙な気がするし、そこも意識してトレースしていった(お互いに)のだとも感じるのですが、

エッグ矢沢さんの芸風って、たぶんどちらかと言うと上記しためちゃイケ寄りのキャラ軸だと今となっては感じるしYouTuber的な領域と相性が良かったのもそういう理由なんじゃないかなと思うし、何より今回の半分告発半分プロレスみたいなnoteそれ自体がテレビ演出的な思考回路からなる振る舞いのようにも感じます(本当に経験としてはキツかったんだとも思うけど)

それ自体が藤井健太郎さんの世界観のストライクゾーンからはやや外れているとは思うし、ただそういう領域のお笑いも、凄い俯瞰的に構造的に裏笑いと表笑いをどちらも成立するようなバランスとして仕上げている「おぼんこぼん解散シリーズ」的な企画もあるので、そういうような拾い上げ方をするかもと少し思ったりしたい気持ちもあります。
ただだとしても今じゃないのかもしれないけど。

だからと言って隔離実験的なことを素人が知識なく安全じゃない形で行っていたかもしれないという話に関して、どう捉えるべきかという部分は絶対的にあるのだとは思います(スルーするのか、これ以上話題として大きくなってゆくのか、もっと言えばエッグ矢沢さん自体がこの件の整合性が取れなくなったり単純に飽きたり別の形で売れちゃったり、思ってた部分とは異なる展開にコンテンツ化されちゃう事などなども含めて)

 

あと、

ここ最近だと「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場あっても従わざるを得ない説」も象徴的な事例だと思います。

 

倫理と論理とバラエティ

水曜日のダウンタウンで行われた「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場あっても従わざるを得ない説」は、かなり賛否があって未だにその火種は尾を引いている状態だと思います。

 

コチラは、藤井さんの得意とするメタバラエティの矛先が芸人だけではなく視聴者に向いてる形になってもいて、これを放送したらある程度こういう反応になるのは見越していた上での企画だったと考えられます。(謝罪コメントをすると見せかけて全然違う事をポストするというボケを用意してるから)

 

SNSの賛否反応どちらに対しても距離があると言うか、そもそも炎上避けどころか明確に燃やしに行って、でもその燃え上がりに対して反応しない、みたいなスタンス。

実際、これを炎上的なものだと捉えるのなら無視したところで、番組が続こうが藤井さんの立場がどうなろうが、世間のコロナに対する理解が上がろうが下がろうが、これを見て悲しむ人がいようがいまいが、観衆という領域の反応は一時的なものだとは思うので、発し手側が気にならないのであれば、究極炎上という現象そのものへは気にしなくていいのかもしれません。

 

ただ、その上で“それを理解してこれを行った事”という部分が重要だとは思います。

炎上がどうこうというより、観衆の反応がどうこうというより、もっと言えばこの話の本質的にはコロナ対策に対しての無知やそれを風潮的に流布してる事になるメディアとしてのマス的な自覚の欠落というよりも、それら全部を踏まえた上でこれを行ったという「メタ的な視点そのものへのメタ構造」が、なにかを面白がる事として行ききってるなとは思いました。

それへの賛否は個人的にはここで語りませんが、

それを突き詰めて行くと、原始段階では純粋な興味本位だったものが、常識や倫理の突破をどうしても経由する機会が多くなるので、やはりその突破が面白さと混濁して「過激だから面白い」的な感覚に接触していきがちではあるんだろうなと感じています。

 

『KILLAH KUTS』という番組の企画は全部そういう面白さを内包しています。

 

 

以下、「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場あっても従わざるを得ない説」放送前後のSNSの反応

 

 

 

 

 







 

これらの反応が沸き起こるより前に、藤井さんはこういう呟きもしていました。

 



 

僕のこの感想も存在していないのかもしれません。

『KILLAH KUTS』面白かったです。第二段ぜひ見たいです。