バキ童

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バキバキ童貞こと春とヒコーキぐんぴぃさん

 

YouTubeチャンネル登録者数174万人

2025年1月新春公開予定「怪獣ヤロウ!」主演

 

 

この記事に辿り着いている方にはもう説明は不要だとは思いますが、

最近また一段その知名度と影響力を着実に積み上げていて話題に事欠きません。

 

 

 

近年、あらゆるジャンルのコンテンツの総量が膨大に増えてそのファンダムは拡張し界隈化し、それに伴いそのカルチャーへの読解力や言語化の価値比重は日に日に増して「考察」として需要を生んでいると感じています。

 

かつてそれらは消費者の中でリテラシーの高い方が自助的に発信し共同財産として機能していたのだと思いますが、今このネット社会で発し手と受け手の境界が溶けて無くなっている状況だと、本来考察される側の芸人さんという立場の方々が何かのコンテンツの考察者としてその語りをコンテンツとして発している場合も珍しくありません。

 

その最新版が令和ロマンや××clubであり、振り返ると東京ポッド許可局や伊集院光さんとかもそこに該当していた芸人さん達だと思います。

そして、春とヒコーキもそういった文脈上にいる批評的な語り口やカルチャー全般への理解度と許容範囲を持っていて支持されているタイプの芸人なのだと感じますが、

 

特殊なのはやはり
ぐんぴぃさん単体が芸人界の外側で”カルチャー”そのものとして象徴化している所だと思います。

 

なので、現象そのものをある種意図的に利用してるからこそ、


「語られてる」とこと


「語られてない」とこが分離していると感じています。

 

 

そこも含めて面白いなぁと思っています。

今回そういうあまり語られてないなと感じるところを話していきたいなと思います。

 

 

 

バキ童というネットミーム

 

ぐんぴぃさんと言えばネットミームです。

「バキ童」というミームは本人もエピソードトークとしてネタにしていますし、周囲の芸人さんも認知されている前提でいじったり企画にしていたりします。

 

ネットミームそのものはいろんな種類があって人だけに留まりません。人に絞ったとしても個々にそれぞれいろんな複雑な文脈があるし、それをテレビや他メディアで扱う事の難しさ、あと扱えたとしてもまだまだ世代的にも局所度数がある程度高いので、それを題材にする事そのものの面白さが大衆性を獲得してはいないわけですが、ただだからこそ面白さの濃密さは上がっているのだと思います。

 

「知ってる」というだけで共通言語性は上がりその情報を凝縮して感知するからです。その共犯感、愉快犯めいた不特定多数の匿名集団心理によるバイアスが強い情報だから、そもそもネットミームとして拡散されているわけなので。

 

なので、ぐんぴぃさんの

「本人がネットミームになっている」という状況は、

芸人として利用しない手はなかった、いやむしろ せめて利用しないとイメージ脱却が出来ないのでネタにするしかなかった、という思考回路に至るのが想像に難しくありません。

 

 

さらに、ぐんぴぃさんは自分だけではなく他のネットミームについても語ったり、その当事者の方々に実際に接触したりしてドキュメントバラエティ化させていたりします。

 

当事者の方々はそりゃもちろん生身の人間なので

千差万別多種多様な人生がありますから、ぐんぴぃさんと同じように発し手側に位置している人も何人かいて、そして同じようにエピソードトークとしてネタにしている方々も少なくありません。

 

そういう方々の話を聞くのも視聴者としては面白いです。

 

と同時に人だけに留まらず単純にネット上の局所性が高いトピックをネタにする行為そのものは、ぐんぴぃさんの知名度や影響力が上がれば上がるほど、それに伴い賛否も上がってくると思います。

そこら辺に対してもある程度の取り扱い注意意識は個人的に感じてはいるところです。

 

 

上記の呟きからバキ童チャンネルのネットミームネタに対するセンシティブさについて、少しだけ連鎖的に話題になっていました。

元呟きの引用まで含めて若干バキ童擁護論に空気は傾いてるかなと感じました。

 

お笑い芸人としてのぐんぴぃさんがインターネットカルチャーをお笑いにしてゆく行為は、
例えばもっとお笑い界の中心地点での知名度的にその代表格とされるようなマヂカルラブリー真空ジェシカ、令和ロマンなどのようなコンビよりも、
もう一段深いところに身を置いていて

そこに共感性や同時代性が強い磁場で発生しているので、面白さが濃密になってると感じています。

 

 

と、同時にそのセンシティブさは周辺的にたびたび言及され話題にはなってて、

この認識ってかなり世代差、領域差、知識差、が生じているためにその倫理観が断層的になっているのだとも感じています。

 

元の呟き主の方はここら辺のネットミームについて危うさを感じているのだと思います(ただ、バキ童チャンネルはここら辺の扱いについては慎重になっているとは感じる)。

ここら辺のネットミームは、たぶん春とヒコーキをお笑い芸人として認識している層はあまり馴染みがないじゃないかなと感じています(そもそも知らないからどうセンシティブなのかわからない)。

 

そして、ぐんぴぃさんをバキ童というネットミームから認識した層は単純に若年層が多いから、ここら辺のネットミーム(syamu、野獣先輩、ommc姉貴、はてなようせい等)を知っている上でそれがどう倫理的に問題があるか認識できてない人が多いままに集合知になっているのではないでしょうか。

 

春とヒコーキの2人は年齢的(平成初期生まれ)、
文化領域的(ネットカルチャーを知ってるけど、ぐんぴぃさんは北九州の治安悪いとこ育ち、土岡さんは実家が太めの元ニート
な部分に置いてちょうど狭間みたいなポイントに収まっているので、
そのセンシティブさと面白さが危うさも含めて絶妙なバランスになっているんだと思います。

 

いつか炎上しそうだけど、本人たちもそれを把握してて、意外とギリギリの綱渡りがショーになっているチャンネルだと感じています。

 

ただ、今インターネットの時代でその要素が皆無のコンテンツも存在しないと思いますので(この記事すら)、そういう意味ではある種の王道的な面白さを提供しているのだと思います。

 

バキ童というYouTuber

 

ぐんぴぃさんもとい春とヒコーキのことを芸人さんだと思っているので、ここではあえてYouTuberとして捉えて語ってみようと思うのですが、

 

その「芸人」「YouTuber」という論争(?)的なものも もはや特に機能していないというか、見ている側からすると本質的な違いはあまりないと感じていますし、それがもっと精神的ヤンキー性が高いようなニュアンスの地点だとVS構造にしてみる事それ自体にパフォーマンス性、ゲーム性が発生してエンタメとして立脚するのかもしれませんが、春とヒコーキがいる地点はそういう雰囲気とは現時点では異なると思います。なので全体的にはあまり気になってない要素なのですが、

 

ただ芸能はイメージ商売でもありますから、だからこそそういった二元論を漠然と取り入れて活用しているような器用さも実際感触としてはあるのかもと見てて思っていたりします。

例えば

 

 

 

 

 

春とヒコーキが、ここら辺の「青学落研」「大学お笑い」「関東地下ライブ」関係の横の繋がりを最近割と前面に出していってる感じがします(単純に同期が皆売れ出してきたのだとも思いますが)。
ラランドとのコラボでも言及されていますが、初期は

 

「バキ童現象主軸のアダルトコンテンツ系のコラボ企画(しみけんさんとトークしたり)」がメインだったけど、それを

 

「ネットの下ネタ→ニコ動や2ちゃんねるカルチャー」にスライドさせてゆき、

 

「同世代に伝わるネットのおもちゃやフリー素材的な有名人とのコラボ(幸せならOKです、チャリできた)」→

 

「そのノリが伝わる同期芸人や青学落研時代の仲間をチャンネルに登場させる」→

 

「すでにタレントとして売れてたり賞レースで結果を出してる大学お笑い出身芸人(お笑い系トーク企画メイン)」

 

に少しずつ活動の軸足をお笑い芸人のメインストリートに移動させてるのが分かります。

 

そして、上記の動画でサーヤさんが指摘していましたが

 

そういう経営的な戦略脳は意外とぐんぴぃさんが担ってる

(ネタ書く側じゃないのに。元BOOK OFFの店長で売り上げNo.1だったから?)

 

という要素が春とヒコーキの侮れないしたたかさと面白さだと思います。

 

 

 

本当に芸人としてのアイデンティティを大事にしているとも強く感じるし、

だからこそ同時にそのためにYouTubeに力を入れているという

人前に出る自意識という面で見てみても、ネットミームである自分を自分でネタにするような二面性的な構造を感じています。

 

それが巧妙で論理的というよりも

素でこういうロジカルな思慮深さを発揮出来てしまえる天然性をむしろ覚えたりします。

 

 

バキ童というマスキュリニティ

 

ぐんぴぃさんのバキ童としての構成要素には「ネットミーム」「YouTuber」という部分以外に「童貞」という要素が占める印象の割合は大きいです。(バキ童でバズってるからそりゃそうなのですが)

 

このシンプル過ぎる正面突破のセンシティブさが人々の心を掴んだからこそ圧倒的に話題になったわけですが、あまりにその言葉の持つインパクト、風貌のパブリックイメージジャスト感、AbemaTVが扱うニュースとしての引きの強さ、などによって音MAD素材的な擦られ方にのみ留まっていて、実際に社会問題化してる内容の深刻さまではバキ童というアイコンを通してはそこまでは当時触れられていなかったと記憶しています。

 

のちにピーター博士と知り合い、本人がそういった性への学術的知見含めてコンテンツ化し始めたところから徐々にそれらも語られだしてNHK性教育番組に出演するにまで至っていますが、ぐんぴぃさんを通して観衆が批評的に性そのものを語っているコンテンツはあまり見たことがない気がします。

 

 

もちろんそれが「童貞」という状態を指す言葉とともなっているので、それを今後もネタにしていくかどうか含めて自己申告性が伴う代物です。なのでドキュメントとして見ることができるようにもしてるけど演出性も入っているのはエンタメとして提供されているのは当然だとして、それが非常に繊細なグラデーションで描かれているとも思っています。

 

ぐんぴぃさんが今までの「モテない」キャラ的なものと一線を画す点はそこにあると感じていて、例えば今の春とヒコーキと当時同じぐらいの知名度だとした場合の南海キャンディーズの山里さんやアンガールズ田中さんやハライチの澤部さんも似たようなキャラ造形をかつてはしていたと思いますが、ここまで象徴的に性経験の有無そのものをネタ化させてはいなかったと思います。あくまでキャラとして表面的に笑いにする事はあっても「童貞」そのものをここまで全面に押し出すのは童貞を公言していた澤部さんですら行ってなかったキャラ演出です。というか単純に年齢的にもここまで長く興味を持続させていないです。

 

上記の「モテない」キャラ的なものと根本的な需要が異なっているとも思います。

逆に言えば、少子化問題的なものが進んでいるからこそその深刻さも含めて観衆に童貞キャラが受け入れられているためにこの持久走の距離が伸びてしまっているのかもしれません。

仕組みがアイドルの恋愛禁止ビジネスと偶発的に似ちゃっていると思います。

 

 

アイコン化するからこそ降りづらい空気(もしくはそういう衆人監視的な意識によって形成される本人の意思)が耕されているのだとしたらと思うと勝手ながらいささか怖くもありますが、それは結果として現代的な男性性のあり方に関して問われているコミュニケーションの問題と重なってしまっているようにも感じます。

そういった潜在的な同時代の葛藤をドキュメントとしてもモキュメントとしても体現できてしまっているからこその注目度と、その着ぐるみのチャックの隙間から見える内側の人間的魅力が人々の視線を集めてやまないのかもしれません。

 

 

それらの観点含めて視聴者側からもバキ童というコンテンツがもっと語られているものが見てみたいと思っています。

今見渡してみた時にこれとか面白かったです。

 

 

バキ童を視聴者視点で享受する事、なぜここまで人気なのか?、テレビメディアとYouTubeの境目、従来の男性像から切り離されたキャラクターが女性視聴者にウケているという現象、バキ童チャンネルのターゲット層じゃない男性、バキ童を好きだと公言することで発生する評価経済的なイメージ変動、マスキュリニティから見るぐんぴぃ、ネットリテラシーの高さとネットミームをお笑いに絡める事、など

批評的な内容を非常にざっくばらんに男女で語ってて良かったです。

 

バキ童論の中でファンダムと客観視(社会性、メディア論、ジャンダー的な観点含む)のバランスが一番均一的だと個人的に感じました。

 

 

ここら辺の話(ネットの表層と深層がグラデーション的に一緒くたにされながらオールドメディアやパブリックな領域との橋渡し役を余儀なくされ、それによって存在が大きくなってゆく現象)が、水面下だけではない地点でも目立ってきてる印象。

 

 

 

 

バキ童というコミニティ

 

バキ童というコンテンツの一番奥行きがあって親近性が高いゾーンが、ぐんぴぃさんを起点にコミニティとしても機能しながらそれをある程度包み隠さず公開して連鎖的にドキュメンタリー化させている部分だと思います。

 

バキ童チャンネルではお馴染みレンタルぶさいくさんが激レアさんに出た時に特にその連鎖リアリティショーの濃淡があったと感じています。
Abematvでは、かつてレンタルなんもしない人に便乗してアベプラに取り上げられたり、フィリピンから帰国後YouTubeを始めたあたりでななにー新しい地図で元SMAPの三人と共演したり確実にメディア出演で爪痕を残してきた形ですが、そのまま地上波進出まで果たしてしまいました。

レンタルぶさいくで活動し始めた辺りの動画を今改めて見ると感慨深いです。

 

そのレンタルぶさいくさんがぐんぴぃさんと共に在籍してた、ガクヅケ木田さんを中心としたキモシェアハウスも最近地上波に取り上げられていたり、春とヒコーキ自体も有吉の壁やあちこちオードリーなどの番組に出演したりと、ぐんぴぃさんがずっとコンテンツ化させていた自身の周辺コミニティが「バキ童」というファンダムを通さず(経由はしてるけど地上波テレビではそこをメインに押し出さずに)一段広めのステージに躍り出ている瞬間がそれぞれ目立ってきてて面白いです。

 

上記の項目で話したラランドとの動画などよりもさらに深く潜った「裏大学お笑い」とでも呼べるような、同属性の集団丸ごと関係性をショーにしてファンダムを形成しそれで局所的に市民権を得たまま有名になってゆくという、かつてのコイルショックのようなインターネット悪ふざけ芸をまざまざと見せつけられてるようで、今まさに売れてゆくルートに入りかけの見てて一番面白い時期になってると思います。

 

 

 

 

 

 

そういったコミニティそのもののショーアップ化、連鎖ドキュメンタリー性って

例えば、それに一番連動してるのは隣にいる相方 土岡さんを見ると理解しやすいと思います。

ぐんぴぃさんがバキ童でバズったことにより土岡さんの元ニートである側面の打ち出しが強まった感はあると思います。

 

パーソナルな部分の提示はタレントとして売れてゆく行為として必須ではありますが、それがぐんぴぃさんの「童貞」という要素に連鎖する形で始まっているので、それに伴ってよりプライベーティブな側面の打ち出しを求められる事と、逆にぐんぴぃさんがその震源地から動けないのでカラー的にその周辺が別側面を請け負って担ってる形状にもなっているとも感じます。

 

 

 

ひとつ象徴的な事例として

バキ童チャンネルではお馴染み
土岡さんのうまトマハンバーグ好き動画が
松屋の公式に引用RPされていた事とかも注目して見ると面白いかもしれません。

 

春とヒコーキがKOC準決勝進出を果たし、
ぐんぴぃさんのネット上での人気、映画の主演をつとめるなど、大衆領域であるテレビ芸能界的にもそろそろ存在を無視できない雰囲気になってはきています。

 

 

 

と同時に、地上波スポンサー的にはその番組や企業の色などが事情としてあるのでしょうが、「バキバキ童貞」というキャラクターはやはり今の時代のコンプライアンス的意識を差し引いて見たとしても、女性や子供が視聴する可能性のあるコンテンツやイメージタレントとして、組織のトップが苦言を呈するのは想像がつくではあります。
(というか、世代的にインターネットというだけでピンとこない層がまだまだ全然多いのだとは思います なので余計に表層的な印象に留まるために弾かれてしまうんじゃないかなと感じます)

 

なのでなのか、そういうポイントで見た時の
「土岡さんがうまトマハンバーグ好き」だという要素は、
エアポケット的にその“バキバキ童貞外”という周辺存在として、健康でクリーンなブランド形成を目指している食べ物ジャンルのコマーシャルに触れていってるのは知名度的に必然だと思うし、単純に土岡さんがうまトマ好き過ぎる異常さが面白いというのがまずありますが、それを偶発的になのか意識的になのかサイコパスキャラ的なニュアンスを微妙に絡めたまま担わせて定期的に動画を上げてるところを見るに春とヒコーキというコンビの大衆化への足掛かりとしてかなり面白い階段の登り方にも感じました。
(※ちなみに、ぐんぴぃさんはずっとラーメン二郎を推してて動画を上げています。こっちはこっちで同じ食べものというジャンルだけど完全に男臭く、ストレートに健康な感じとは違って、やっぱりニッチさがあるのが面白いです。)

 

ここら辺の断層的なパーソナルの打ち出しが周辺からジワジワと広がってゆくニュアンス。半分意識的、半分自然体な状態として、バキ童というコミニティがプラットフォーム化している点として見ても非常に面白いと思います。

 

今ぐんぴぃさんはネットスターとしてギリギリ大衆領域の縁側を歩きながらも、
相方である土岡さんや
シェアハウスで共に過ごしていたレンタルぶさいくさんやガクヅケ木田さん、
アダルトコンテンツ企画で人気を博していたリップグリップ岩永さん、
作家としてチャンネルに関わってる8月22日の彼女のFANさんなど、
バキ童チャンネルでは顔馴染みで準レギュラー的立ち位置になっている出演者、ぐんぴぃさん周辺の人々たち、そういった方々も個人チャンネルを立ち上げていたり、スポット的に地上波テレビ出演を果たしていたりしていて、「バキ童」というプラットフォームから、その中心で広大な磁場を維持しながらある領域までしか拡張できないぐんぴぃさんの代わりに、派生した構成人物がそれぞれ別々のやり方で領土拡大を地道に耕しているようにも感じられて、今後どのように「バキ童の一味」がもう一段有名になっていくのか楽しみで面白いです。





 

 

バキ童という現象

バキ童を構成する要素について様々考えてみましたが、結局そういったあらゆる側面が重なり合って促進される共感性とそれによって引き起こる議論的な現象がインターネットと相性が良いのだろうなと思います。

 

ネットミームを知ってる、知らない

芸人なのか、YouTuberなのか

童貞的なマインド、非童貞的なマインド

コミニティ内のノリ、コミニティ外からの視線

 

それらのいろんな角度からの多層的に重なった要素が二項胴体となって親近感のグラデーションを育み続けているのではないでしょうか。

 

少し前にバキ童論争的なものがまたもX上で起きていました。


「オタク」という点に絞られて語られている感じでした。
ぐんぴぃさん(春とヒコーキ)が本格的に芸人として売れてきて、「反発派も目立ってきた」「持たざるものだと思ってたのに問題」などと捉える事もできますが、

ぐんぴぃさんの持っているカードがよりマイノリティ的、サブカルチャー的、インターネットユーザー的な領域のちょうど狭間の属性や年代だったりするので、この論争自体は一筋縄では行かなそうだと感じています。

 

 

 

 

個人的には、こういった二元論で何かを考える事自体をネット空間で行う事に限界はあるし、なにか雰囲気的結論に着地したとしてもそれそのものに対して僕自身は強い興味が湧かないような気がしています。

 

ぐんぴぃさんが童貞じゃなくなったとしても、別にそれを発表しなくて良いと思ってるくらいです。

なんなら、「実は最初から童貞じゃなかったんだ」と言いだしても別にいいと思っています。

 

というか、やはり

「有無の確認が確実に出来るものではない」から、そもそも僕らの見ているバキ童という偶像は実態がないのです。

 

バキ童じゃなくて、お笑い芸人ぐんぴぃを見ているのです。

 

そして、そのぐんぴぃさんという存在すら芸人としての名前であり中心部分はファンタジーです。本当に何を考えているかは山口大樹さん本人しか知る事ができません。

 

バキ童という現象は、そういう共同幻想の中から生まれた童貞の具現化存在であるぐんぴぃさんを中心に、観衆がそれぞれ自己対話を成す形で膨らんでゆく議論という名の社会的な集団モラトリアムなのかもしれません。


こういった議論を常に生みながら、この渦がどんどん大きくなって、バキ童という現象と共に春とヒコーキが芸人としてもっと売れていってほしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

(文 : 視力)

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