ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー感想

 


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見ました。面白かったです。

 

ネタバレになりますが、

と言いますかあまりネタバレが関係ないタイプの映画だと思いますが、

 

レインボーロードのところが色彩鮮やかで、疾走感があって、見ててワクワクする楽しさがあって、特に好きでした。マリオカートを久しぶりにプレイしたくなりました。序盤での工事現場を走ってゆくところもマリオ感満載で良かったです。横スクロールのジャンプアクションゲームの醍醐味は、あの部分でもう求めていた映像欲として満たされていたと感じます。あのシーンを操作したくなりました。

 

ゲームというものの擬似体験性と、

映画というものの追体験性の、違いも感じました。

 

なんというか、マリオに感情移入はそこまでしてなくて、ストーリー構成の妙に唸ったとかも全然無くて、見終わった後にずっとマリオの1面の音楽が絶え間なく流れ続ける感じのゾーンに入ったと言いますか…上手い人のゲームプレイ画面を横から見てたような面白さがありました。

 

 

それはおそらく、僕の世代的なものが関係していて、僕はスーパーマリオ64世代なので、映画の中で描けれていた元ネタがほとんど分かった、という部分が大きいと思います。今回SNS上で、映画批評家的な人たちと、そうではない視聴者との間で、論争めいた現象が起きていたのも若干確認したのですが(それすらも出処がどこからかわからず信憑性があるのか無いのか分かりかねますが…)たしかに、ファイヤーフラワーとかギャラクシーのチコとか説明不足だし、そもそもの土管の存在が前提共有過ぎるので、あれを伏線か何かだと捉えながら見たのだとしたら覚えた謎は解明どころか全く回収されずに終わるので、意味がわからん…となるのも察します。でも、まぁ…そういうものだしなぁ…と、マリオをやった事ある視聴者的には思ってしまうのも事実です。

 

なので、その世代差を含んだ前提知識による部分が大きいというのがあった上で、しかもそれがゲームであるという要素もかなり重要だと感じます。

 

ゲームの特性は擬似体験性だと感じるので、脳内補完が容易く行なわれてしまうのだと感じます。

横スクロールのスーパーマリオが顕著ですが、我々ゲームプレイヤーは画面の中をその世界の全てだとして神の視点で主人公を操作します。

この時、操縦先であるマリオに感情移入をそこまで深くしていないと思います。し過ぎるとプレイに思い切りが生まれないし、だからこその現実では体感出来ない運動神経を駆使することが可能だからです。能動的な楽しみ方。

 

それに引き換え、映画の特性は追体験性です。むしろ主人公に感情移入しまくります。キャラクターへの没入が100%達成されなくとも物語や世界観に整合性を求めそのリアリティによって情報密度を堪能します。もっと例外的な視点で言えば、それが抽象的で難解な作品だったとしても、その奥にある監督の意図を読み解こうとする、という楽しみ方があります。これらは全て、受動的な楽しみ方です。逆を言えば、映画そのものには視聴者が「操作」できる余地がないという事です。

 

 

この違いがこのコンテンツをどう評価するか、受け手の視点によって左右される率が上がる事を意味しているのだと感じます。

 

 

やはりマリオをある程度プレイした事があって(特にやっぱり、64以降の3Dになってからの横スクロールじゃないマリオが体感的に染み付いているかどうかがメイン)キャラクターやアイテムがどういう意味のものかを把握していればしている程に答え合わせ的に楽しめる構造になっていて、それが今までプレイしてきたマリオを想起させ、自身のプレイ遍歴を自動的に重ね合わせてしまうために、鑑賞後に勝手にクリア達成感を味わってしまうのだと思います。下手したら映画館で鑑賞をするという行動そのものに操作欲の刺激があるために、批評行為へのバッシングが目立っている可能性もあるのでは?と考え過ぎてみたりしちゃいます。

 

また、これはこの映画だけでなくさらに外側の視点になるのですが、エンタメやコミュニケーションのあり方が、情報化社会の中でコンテンツの前提共有をかなり孕んで運営されているからこそ成り立つ、という状況が目立ってきたと感じています。マリオだけでなく、漫画やアニメが原作で映画化され元からのファンが大きく反応する現象ももはや当たり前の光景です。音楽で言えばvaporwaveとシティポップの関係性や、お笑いで言えば大喜利文化というものの領域拡大など、これらは全て知識や体感の前提共有の伴いと、当事者参加者意識が含まれている代物です。インターネットが浸透してから以降の新しい普遍領域。

大衆娯楽と二次創作の境目はとっくに溶けて無くなり、共通体験という価値観はかつてほどは所持しにくくなっているのかもしれません。受動的なコンテンツでは。そういう点でもゲームというものが擬似体験そのままに追体験できるほどにプラットフォーム的な土台がかなり盤石になってきたという事の表れなのかもしれません。

 

なんて事を言っていたら、

余計にマリオをプレイしたくなってきました。