「キュウ」M-1 2022

 

キュウの漫才って、エロいんだと思う。

 

 

言葉遊びや顔芸はそれを引き立てる道具なだけで、漫才にしては長いあの間合いが、焦らしと擽りになってて掻き立てる想像を一瞬で壊してくれる快楽がある。

 

M-1でやってたネタの「上手くないでしょう」の時の清水さんの指の動きとか堪らん。

ぴろさんの、待ち顔も。

 

 

言葉遊び - 言葉 = 遊び

 

 

昔の漫才と比較してみるとその変態性をより深く味わえます。2人とも今より言葉数が多くて、清水さんは回し気味ツッコミ、ぴろさんは説明的なボケ。

キュウの進化って、言葉遊びの向上って言うよりむしろ言語解体。

 

2人のバランスは変わってなくて、そこから言語性が引かれてる。

 

 

こういう感じの面白さ。

言語を完全に無くすわけじゃなくて、それをフックにある程度残したまま音楽に近付けてゆく行為。

 

漫才という旋律を保ったまま行うハナモゲラ語

 

そして、それを共同作業でやってて、なおかつ人前で確信犯的に披露するから露出狂性も発生してると思う。

 

 

変態とは何か?

じゃ「変態性」ってそもそもなんなんだ?という事ですが、心理学者フロイトはエロスと対比してタナトスを上げ表裏一体を説いてるわけですね。

生は死の縁に近付くと燃え上がる。それすなわち抑圧。

キュウの漫才は抑圧によって面白くなってる。

漫才という言語遊戯を言語の抑圧によって燃え上がらせてる。

 

 

タモリさんのこの話を聞いたことある人も少なくないと思うのですが「変態の第一歩は恋愛」これって生殖という本来の目的から外れて興奮する事を指摘してて、フロイトの言う「文明は『エロス≒タナトス』の抑圧」という説にも通ずる。

 

変態性ってのはズレの事だと思います。

 

 

漫才性管理

言ってしまえばキュウの漫才って「コント」なのですが、その前提ボケを描くにしてもディテールが丁寧で、ちゃんと漫才の形式から始まって、言語がズレてゆき「だんだん漫才じゃなくなってゆく」。

しかも何本かネタを見ると、それが目的になってる。興奮するポイントが本来の目的から遠くなってゆく。

 

これって、めちゃくちゃエロい事だと思う。すっごく官能的。自分が変態である事を自覚してる。

 

 

我々はもう、キュウの漫才を知ってしまった時から普通の漫才では物足りなくなってしまってる。もっと私を楽しませましょう~!ってなってる。

 

それって本来の漫才の目的と

「全然違うもの」だと思います。