
キングオブコント2025を観ました。面白かったです。いろいろ感じたり思ったりしました。なので個人的な考えの整理みたいなものを書いていこうと思います。
ロングコートダディ
ロングコートダディ優勝。
いやぁ、圧巻というか悲願というか
ずっと優勝候補や実質優勝などと言われ続けて、今回やっとタイトルを獲ったというロコディの勇士は
審査員、視聴者、芸人、お笑い好き達から
文句無し納得のコントでの横綱相撲を見せてくれたと言えるのではないでしょうか。
兎の絶妙さ


今回、審査員やネット上の感想で割りかしあった印象の評として
「秩序」という要素に重点が置かれていた感じがしました。
誰かの感想で
「無秩序なぶっ壊れた面白さを求めるか、秩序の中でギリギリの繊細さを積み上げた面白さを求めるのか」
というものがあったのですが、たしかにその傾向は強かったように思えます。
前年にラブレターズがシュールの象徴のようなコントで優勝を飾ったからなのか、その揺り戻しで主軸を見失ってしまったかのようにトレンドのテイストが秩序と無秩序で二分している感がありました。
そんな中で、ロングコートダディはそのどちらの要素も満たしながら 無秩序と秩序のちょうど真ん中をピンセットで摘むように面白さを抽出し見事なコントを披露したのです。
その手捌きはもちろん堂前さんの類稀なるネタ作りの才から来るものであるわけですが、
ロングコートダディがこのタイミングで優勝したのは今回のような秩序と無秩序の狭間のトレンドの中で、そのどちらの要素も体現できる兎さんの絶妙なフラの面白さによるものも大分と大きいと思います。
兎という芸人は なんとも言えない空気感を常に携えてて、なんかずっとうっすら面白くてうっすら腹が立つ感じがとても魅力的だと思います。
この兎さんの絶妙な面白さを決勝の舞台で披露するネタにいかに昇華するか
その戦いの歴史だったと思います。
兎さんの面白さってある種、本人が意識的に管理出来ているからこそ逆に制御出来てない面白さになっているというか
兎さんは常に自分がどう見られているのかの判断能力が高くメタ的に立ち振る舞えてしまえる部分があると思います。
コンビのリアクターポジションとして俯瞰的な視点が強い感じがあるのです。
いじられてるというよりいじらせている。
そして、そのいじらせてる感が鼻に付く部分でもあるのでそこに絶妙な子憎たらしい面白さが宿ってる。
ロングコートダディの初期の頃のKOC決勝で披露していたネタは今より完全に兎さんがボケの位置に設置されています。

2024年決勝の花屋のネタ辺りから、兎さんのその感じをキャラクターベースに施しながらも堂前さんがそれに対して地味に反撃してゆく様をボケとして提示する事で、兎さんのあの絶妙な子憎たらしさが存分に発散されながらリアクターの立ち位置を全う出来るというスタイルに切り替わっていきます。
今回ファイナルラウンドで披露されたコントへの反応で、兎さんのビジュアルが「ワタシってサバサバしてるから」の網浜さんを連想した人も多いようでした。

兎さんが演じていたキャラクターはまさしく網浜さんのような、なんとも言えないムカつきを背負った象徴存在としての具現化キャラで、最後堂前さんが撃ってしまう事でその小さなストレスの集積が破裂する爽快さを味わわせてくれる機能として絶妙でした。
通常なら撃たれたら可哀想な展開の物語なのだけど、兎さんは絶妙に可哀想じゃなくて、ただ撃たれる程悪い事していたわけでもないから被害者ではあって、でも堂前さんは一応間違えて撃ってしまったというハプニングであるという工程を丁寧に描いてもいたからそこに至るまでの流れは納得できて、それら全部の組み立てがコントとしてとても美しく、そしてこれこそが秩序と無秩序の絶妙な狭間だと思いました。
青色1号と共感性
秩序の側であった青色1号のコントと比較するとその事は分かりやすくなるかもしれません。
青色1号の今回のネタは
「秩序の中でギリギリの繊細さを積み上げた面白さ」に割と該当するタイプだったと思います。
トリオ芸として東京03を彷彿とさせるようなフォーメーションでカミムラさんを中心に仮屋さんと榎本さんを対比の位置に置くようしてグルーヴを作り上げる。
設定もサラリーマンで先輩の話に対するリアクションというもので展開的にも東京03を連想する人は多かったように思えます。
ただ、その上でSNSでの反応として
仮屋さんのキャラクターに共感を示すような感想が多かったところに青色1号の特色を感じる事が出来ました。
仮屋さんは今回の構成上どちらかというとフリ役というか、先輩であるカミムラさんの話に対するリアクションが薄くて相槌を上手く出来てない事を見せるポジションをやってて、その後に登場する榎本さんの話を聞く上手さにおける過剰なリアクションを強調するための装置として機能していたわけですが、
そのフリ段会である仮屋さんの佇まい、リアクションの薄い演技に
「自分も普段こういう感じで話聞くの下手だから分かるわ〜」
的な感想が自分のTL上だと多くあったように思いました。
ここがたぶんけっこう東京03と違うところだと思います。
またシソンヌのじろうさんが審査コメントで
「やってる設定が3人の年齢に合ってないように見えちゃって。おじさん感が出てからの方がこのネタ良いんじゃないかなって」
というような評を述べてて、それに若干見てる側からの懐疑的な反応もあったと思うのですが
それはおそらくこの座組と設定で行くなら、"哀愁"による面白さが乗っかっていた方がよりウケやすいのではという話だったのだと解釈できます。
内容的に人間味による笑いを軸とするような設定のため、歳を重ねてからの方が三者三様の年輪による面白さがたしかに滲み出てきそうだなと個人的には納得感がありました。
ただ、それに対して
「今この年齢だからこそリアリティがある」
という対岸側からの反応もけっこうあって、それにもシナジーは感じます。
それは仮屋さんのあのリアクションの薄さが今ぐらいの年齢の方があるあるとして強度が高いというか、簡単に言えば共感した人が多いのだと思います。
この仮屋さんの薄さ、話を聞くのが下手な人のリアリティ、その丁寧な積み上げが青色1号の今回の1番の特色だったのではないでしょうか。
そして、その繊細な共感性を丁寧に積み上げて作った世界観を後半榎本さんが掻っ攫って破壊していく。
その破壊具合が前述したロングコートダディの撃っちゃうというところまでのカオスに到達するわけではないのと、
見た感想の中に
「仮屋さんに共感して見てたから可哀想だと思った」
「話を聞くのが下手な方が下手なまま最後までいって終わった。逆転するのかと思ったけど違った」
というようなものもチラホラあって、共感性が高い積み上げ故に小さなストレスの集積が解放に向かわなかったように感じた部分もあったように思えます。
繰り返しますがそこが青色1号の独自性と良さでもあると感じていて、東京03の方向性とは異なるフックがあったという事でもあるので今後どうなるのか楽しみです。
このきめ細かさがロングコートダディと比較した時に、かなり秩序の方に針を振ってたサンプルだったのではないでしょうか。
レインボーのベタコード
秩序の中の積み上げという点だと、
レインボーは他とはまた違う秩序を保ってたように思えます。
今回レインボーが披露していた2本のコントはギリギリの繊細さがあったかと言われると、むしろコント師としてはある種の無骨さがあってそれが面白かったという感触があって
「女芸人」というネタは、自己批評的というかコントのていを成した芸人の内輪ネタの最大公約数を限りなく引き伸ばしたような設計で
2本目の「タクシー代」のネタも、物語展開が六本木の社長との飲みからライアーゲームのような雰囲気に飛躍していくというクオリティの高い"ノリ"を純粋に魅せていくような運びになっていて
どちらもレインボーの半径数十メートル以内の世界をコントにアレンジしたような質感。
凝縮させた学校あるあるや同級生モノマネ的なお笑いの現代最高峰というような面白さがありました。
おそらくジャンボさんが普段から楽屋とかで芸人仲間に話してるような事が題材になってて「女芸人」も「六本木の社長」も「飲み会に出向くグラビアアイドル」も話題に出やすい身近な存在なのかもしれません。
なんというかレインボーのコントはスタジオコント映えしそうな感じがあって、
ウッチャンナンチャン成分が高いと思います。
バブル期以降の平成コントバラエティの豪華なセットの中に漂っていた同世代的な空気感、仲間内感を視聴者にも把握させるお笑い番組ってかつてもっとあったと思うのですが、その最新版が今YouTubeやTikTokなどで回っているショートネタの中に民族移動しているのだろうなと感じます。
そういった当事者性、時代の等身大性を増幅させて、そのベタコードを丁寧に積み上げ一本のコントに仕上げている職人がレインボーなのではないでしょうか。
そういう点で見てゆくとロングコートダディや青色1号が描いていた機微や内省の共有とは真逆とも言えるニュアンスもあって、その上で展開される池田さんの女性にしか見えない演技のクオリティやジャンボさんの主張の強い陽のテンション感などが、無秩序と言ってしまえるまでぶっ壊れているわけではなく、日々の鍛錬によって到達しているテクニカルさでもあるのが伝わってくるため、これはこれで統制された秩序の中で飽和しているコント世界なのだなと理解できます。
こういったコントとしてのベタ、お笑いとしての土着さで見た場合、や団もまたそこに該当するタイプだと思います。
ただ、レインボーと比較するとや団のコードは現代版のベタさというよりも、ボキャブラ世代とかに通底していたような一昔前のコント師の旋律を描いていて、そしてそのコードの中で繰り広げられる脚本が現代的な裏切りを含んでいるという塩梅になっています。
また、純粋なベタさとは違いますが
メタ笑いとしてそこに技術を注ぎ込んでいた
うるとらブギーズが披露していたコントは、その発想とあれを実際に演じきれる胆力があってこそである事も含めてお笑いにおけるメタさもここまで来たのかと思わさせられる代物だったわけですが
その種明かしに辿り着くまでの導線の丁寧な引き方と、それが明かされてからのカオスの乱連打はオーソドックスの上に乗っているからこそ紡げる俯瞰視点の獲得だとも言えるのだと感じます。
端的に言うとメタとしてベタ。
その王道が出来るからこその枠外しの面白さが炸裂していたのだと捉えられます。
お笑い全般に言える事でもありますが、無秩序に触れるために立て付けられている秩序の骨盤をしっかりさせる必要があって、それを技術の高さによって逆説的に感じさせてくれたのがうるブギの今回のネタだったのだと思います。
これらのベタコードという点で見比べてみた場合、改めてレインボーが描いていたラインというのは現代的なコントのど真ん中、大衆性のようなものにおける丁寧な秩序の積み上げだったと。
そう感じさせてくれる美学がそこにあったと思います。
無秩序コント師たちの台頭
後半ブロックが特にそうだったと思うのですが、
前項で述べたような秩序の積み上げによる面白さを相対して、無秩序なぶっ壊れた面白さが連続して披露された印象も今年のキングオブコントは強かったと思います。
振り返るとちゃんとした人間は何人出てきてたのでしょう?
ほとんどちゃんとしてるどころか人間じゃない存在もチラホラ混ざっていました。
コントと呼ばれるものの作品性、演劇性が大会を重なる事で高まっていった結果
その反動のように約半数組がその地点と真逆に走っていくようにして狂喜乱舞をばら撒いていたその光景がまだ目に焼きついて残っています。
単純なグロテスクやバイオレンスの面白さと呼ぶのもまた違う気がしますが、そういったニュアンスの取っ掛かりを使用してでも破壊したかった何かがあるのかと
芸人たちがコントのなにを破壊して無秩序の先に進みたかったのかを考えていってみたいと思います。
ファイヤーサンダーの一石
衝撃度で言えばファイヤーサンダーのネタが一番印象に残っています。
後半組じゃないし、もしかしたら建築方法だけで言えばどちらかと言えば秩序の側でもあるのかもしれませんが
ただ何よりやっぱり「殺人」というワードの破壊力がヤバすぎる。
なんかあれをゴールデン帯の賞レースでやっている事、もっと言えば今この時間帯や放送日だけではなく、何年も掛けてテレビ界や世の中全体のコンプライアンス的な意識が高まってきて、ああいったタイプのネタやそのワードで面白がる以前にワードそのものを出してはいけないような空気があるんだろうなというのを視聴者観客含め、勝手になんとなく漠然と思っていたからこそそのうっすらとした常識を越えた瞬間に弾けるような笑いが起きていたのだと思います。
それは何もそういった社会に対して芸人が痛快に皮肉ってやった的な事ではなく、
…いや、そういう見方、捉え方もあるのだとも思うのですが
むしろ逆に不謹慎だろという感想ももちろんあっただろうなというのは踏まえた上で
ただ、それらが全部フリになっちゃってる面白さが一個突き抜けたかのように破裂していた感がありました。
これを決勝に上げよう、上げてみようと判断した大人達がいるという事実が茶化しという意味合いでなく単純にそれ込みで面白いです。
なので、本質的にはあのくだりは殺人でなくても良いとも言えちゃうのだと思う(それは時代や場所によって何が常識を裏切るか変わるから)だけど、あの時あの瞬間は殺人というワードで当たってたんだと思います。だから逆に殺人じゃなきゃいけなかったと思う。
殺人というワードだから突き抜け切れた何かがあったのだと。
その後の展開構成的には、むしろこの題材によるコントの丁寧な秩序を積み上げて綺麗にまとめあげていて、だからこそ殺人という要素がものすごく際立つという、秩序も守るからこそ中心に剥き出しの無秩序が鎮座しているというカタルシスを存分に味わえて面白かったです。
しずると混沌

しずるのネタも笑っちゃいました。
「ずっと何してんだよこれ」って思って面白かったです。
しずるは2人ともネタを作れる上にどちらが担当するかによってテイスト、雰囲気がかなり変わる印象があって、なので常時無秩序タイプというわけではないでしょうし、
何より今回のネタは一度クセスゴという番組でも披露されててそのショートバージョンの動画がTikTokなどを中心にバズってて割と評判になってたからこそ、本人達も言及していましたが決勝でイマイチ爆発しきらなかったところもあって、純粋無秩序な笑いが形成できていたパフォーマンスなのか微妙だという声もあるかもしれません。
ただでもなんか、僕は
それも含めて「ずっと何やってんだよ」ってなって面白かったです。
しずるの面白さ、特に池田さん
というかKAƵMA(カズマ)さんの面白さって
「ずっと何やってんだよ」というメタ視点のツッコミを入れれる面白さで、そういう意味ではしずるの無秩序さは若干コントの中の世界からは外れつつある面白さであるのだと思います。
ネタ終わりでの審査員とのやたら喧嘩腰の絡みや、
本番中もBKBさんに頼んで呟いてもらってたりとか、
番組終わってからもそのテンション感のままXのプロフィールに「敗者」とだけ書いたり、
ずっと常になんかキャラに入り続けてて普段からうっすらコントを演じ続けてるというか、KAƵMA(カズマ)本人も自分の人格がちょっと分からなくなってるかのような自我の濁流の渦込みで面白がる感じが常にあって、究極的に言えばラブファントムのネタもウケてようがスベッてようが、そのどちらにも回収されてしまう混沌がなによりも面白く、これこそが無秩序であると示してくれたコントだったと思いました。
この前に披露されていた元祖いちごちゃんの地下ライブの再現かのようなアンダーグラウンドによる大衆性の破壊
その次のうるとらブギーズが提示してみせた言語解体とその飽和による意味とコミュニケーションの剥奪
それらの上質なカオティックコント群を通過した先に、
「そもそもこれコントとして成立しているのか?」
「あんまりウケてないじゃねぇかw」
「5分間何やってんだよ!おいw」
というお笑いという営みそのものに揺さぶりを掛けていたしずるの本気の冒涜が、いらない何も 捨ててしまおう と言わんばかりに通り過ぎていってて面白かったです。
トム・ブラウンの狂乱

無秩序コントの本丸、大本命
狂気とカオス以外の何者でもなかったトム・ブラウンの暴力行為は語らずとも決勝を見た方ならその意味はわかるでしょう。
というか、TL上で話題にもなっていたテレビの前の全国の犬、猫、鳥などのペット達がしきりに画面に反応し鳴き声を上げていた事からもその異様事態は一目瞭然だったのだと思います。
動物の本能に訴えかけてくる笑い。
なんなんだよそれ。なにかそういう凄みを感じざるを得ません。
まぁ、それはいつも通りのトム・ブラウンと言えばそうでしかなかったと言えるのですが
漫才ではなくコントであった事でより増幅された部分と逆にそうではなかった部分があったようにも感じられて
前述したしずると比較してみるとトム・ブラウンの方がその面白さの向かう先が外側からの俯瞰視点というよりも粗雑でありながらもパッケージングされているようにも感じられて、そこに布川さんとみちおさんの表現者としての才が宿っているようにも思えました。
しずるの場合は場外乱闘的にコントの外にはみ出てしまう笑いだったけど
トム・ブラウンはリングの中で凶器を出すという反則技を繰り出して観衆に叫び声を上げさせる笑いだったと思います。
コントになる事で2人のビジュアルシンカーっぷりが発揮されてたというか
むしろ、どこか絵本のようなダークファンタジー的世界観とも捉えられるような、B級ホラー映画のようなストーリーラインとも評せるような、そんなカオスコードある意味丁寧に引いていたとも言えちゃうかもしれません。
分かりやすい気持ち悪さを全面に押し出してそのインパクトで点を繋ぐように悪夢めいた物語を構築した時に出来上がる無秩序なぶっ壊しは、破壊した瞬間に新しい何かを創造してしまってる そんな原始的体現をただただ振り撒いてて最高でした。
トム・ブラウンという存在それ自体が破壊と想像を繰り返す無秩序と秩序の永久機関でした。
その後に披露されてたベルナルドのカメラマンのネタも面白かったです。
トム・ブラウンのあとでオーソドックスに見えていた人も多かったかもしれませんが、このネタも充分にカオスでグロテスクな設定でそれを丁寧に構築してて好感が待てます。
ベルナルドが展開していたコードはこの手の突飛なキャラコントという点でベタを描いていたとも言えてレインボーの逆になってて、ちょうど10組目でまた折り返すかのように循環作用がひき起こっていて、なんか良かったです。
コントが切り取る時代の空気
ひと通りネタに関して振り返ってみて
そのトレンドを感じながら思うのは、やはり繰り返しのワードになってしまいますが「秩序」への芸人、視聴者の興味関心が高まっているからこその今回のラインナップになっているのだと思いました。
この選出から朧げに浮かび上がってくる今この瞬間の雰囲気、時代の空気感がなんとなく感じられるのがコントというものの醍醐味のひとつであると思います。
昔の爆笑問題の漫才を見たりすると、その中で話されてる時事から
「ぁあ、こんな事があったなぁ」
「当時はそんな事が話題になっていたんだ」
と感じられたりするのですが、
これがウッチャンナンチャンのショートコントとかを見ると、その題材が「レンタルビデオ」や「ファミリーレストラン」「コンビニ」などその当時新しく登場した文化を取り入れていたり、
バナナマンの「ルスデン」というコントはスマホ普及以前の時代のネタなので、家庭用電話の録音メッセージ機能が話の軸になっていたり、
その時代の文化や生活、常識や社会通念的なものがより表れていると感じます。
漫才は喋りの芸能なので、その時の世相や言葉遣いや何がウケているのかなどが漫才師という固有の人間を通してダイレクトに伝わってくるのですが、
コントは演技による描写表現なので、例えそれがファンタジーな世界観であってもリアリティを追求してても人々の共同幻想が反映されているのは間違いなく、その時代の何かの模倣であるために現実の写し鏡になっているのだと思います。
つまり、今この決勝メンバーで披露されていたコントたちから醸し出ている何かは、今この時代の何かの空気感を切り取っていて、そこを見つめていくのがコントを見ることの面白さのひとつなのだと言えるのではないでしょうか。
電車の中で叫ぶ人という予選でのトレンド
お笑い好きの間の中で話題になっていたトピックとして、
準々決勝でネタ被りが乱発していたという情報がTL上で割と確認が出来たりしていました。
そして、その被りの内容が「電車の中で叫んでいるおじさん」という設定が散見されたというものでした。
このタイプのネタは今回の決勝には上がってはないわけですが、
予選という水面下で話題になる程被っていたという現象はなんなのか?
また今回、前述した「秩序」という観点で考えた時に決勝のラインナップを見てみても、ファイヤーサンダーの殺人、や団の薬物、元祖いちごちゃんのブリーチ、トム・ブラウンのおでき等、ゴールデン帯のテレビ放送に載せるには少々アウトサイダー気味な設定が割合として半数近くを示てて、それは予選段階で電車で叫ぶおじさん含めそういうテイストの設定がそもそも多かった、そういうジャンルが目立つという状況であったのだろうというのがなんとなく窺い知れます。
そして、電車の中で叫ぶ人系のネタと聞いて思い出すのは
2021年の決勝で披露されていたザ・マミィの「この気持ちはなんだろう」
もしくは決勝では披露されていないですが空気階段の「電車のおじさん」
などのコントで、これらは数年前に割りかし新規性を持って題材にされていた設定だったと記憶しています。
単純な理解をするならば、その時に珍しかった設定が時を経て定着したためそれを題材にするグループが増えたという事なのかもしれません。
ですが、それだけの理解でいいのでしょうか?
もう少し掘り下げてみると見えてくる社会の切り取りがあるかもしれません。
誰も傷付けない笑いの現在地
決勝のラインナップにしろ、予選でのトレンドにしろ、そのテイストはコントである以上、現実の何かの反映であると思います。
まず電車で叫んでいる人という題材は、
2021年段階でザ・マミィや空気階段が設定にそれを選ぶ斬新さが生じている時点で、現実の生活でそれを目にする機会が不特定多数の人々の中にあり、なんならうっすらと社会問題化していたからこそそれを取り上げる事のあるある的な面白さと、意外性のある展開に施す事で笑いと共にその物語を受け入れるという作品構造をしているのだと解釈できます。
ただ、それはただ題材にし笑いにしているだけで問題そのものを解決しているわけでは無いので、問題は問題として現実にはあり続けているからこそ2025年段階のキングオブコントの予選でオーソドックスな設定になるほどに電車の中で叫ぶ人はあるあるの強度として高まっているという現状でもあるのだと感じます。
もっと言えば、ここら辺の"公共の場での一般人をいじる"種類のお笑いは、昨今のネットミームによる影響の大きさが若年層から中心に広がっていってるからこそのネタ被りと、そういう人を笑ってもいいという空気の熟成を促進させてもいる可能性も高い気がします。
東大医学部頭悪いおじさん、その心笑ってるねおばさん、ゲームのカード落としちゃった、性の喜びおじさん、などなど。
そして、そのセンシティブさは準々決勝で飽和し決勝の舞台にまでは上がってきてはないといえど上記した無秩序方向のコントたちの質感から、完璧に封じ込めれてもいないようにも思えます。
元祖いちごちゃんのハイパーペロちゃんのキャラクター性や、コントの世界観としてのアンダーグラウンド的な演出、あれが今地上波で出来るギリギリの異物感のリアリティだと思いました。あの範囲内の面白がり方が一応の線引きなのかもしれません。
また、それを"いじる"という着眼点で見た場合
いじる側、強い言い方をあえてすると加虐側の面白がり方の線引きが、ロングコートダディの1本目の「否定から入る事への指摘」や2本目の「(わたサバ的なキャラへの)なんか分からないムカつきを天然で撃っちゃう」というラインなのだと思いました。
どちらもコミュニケーションの中における若干の自分本位さ、その集積に対して丁寧かつ悪気のない形でいじる(というボケ)の提示が加虐側のギリであり一番面白いところでもあるから優勝を飾ったのだとも思います。
これを数年前によく形容された「誰も傷付けない笑い」的なものへの緩やかな揺り戻しだと捉えるには、いささか乱暴な感想な気はしますが
2025年の今、キングオブコントの決勝でそういうタイプのコントが「秩序」と「無秩序」という二分化、二極化をされ並べられているという状態だった事は記憶しておきたいところです。
KOCにとって演技とはなにか?
ここまでネタやトレンドなど中身についていろいろ言及してみましたが、
その外側、審査員や番組全体やさらにその外バラエティ情勢そのものやメディアプラットフォームなどについても考えてみたいと思います。
そんな中ひとつ基軸になるのは"コント"という演芸。
改めてコントとは何か?演技とは何か?を捉え直しながら、その付随要素としてそれらについても思い巡らせてみたいです。
M-1のように道具や舞台演出を封じられ競技としての縛りが強いわけでも無ければ
R-1のように人数だけ統一してあとは異種格闘技戦という程自由度が高いわけでもありません。
M-1とR-1の間ぐらいの位置に漂っていて
だけどもコントというものの確固たるスタイルが形成されている表現ジャンルです。
なので、コントでしか表せないものがあります。
そのコントでしか表せないものが何かを探りながらその周辺部分について言及していってみたいと思います。
東京03飯塚の評価軸
審査員席に座る飯塚さんへの賛否の声は回を重ねるほどに聞こえてきます。
個人的に飯塚さんの言ってる事のニュアンスはなんとなく分かるところがあるからこそ、そこへ対しての反応はもどかしさも感じつつ、同時に正直飯塚さんが背負いすぎな気もしています。
飯塚さんって本来は昔のM-1で言うところの大竹まことポジションだと思ってて
大竹さんは1人だけ漫才師じゃなくてトリオコント師でシュールな笑いの文脈を持った批評的なコメントをしてて「そういう見方もあるか」という部分の言語を担ってた存在。
飯塚さんも気質的にも芸風的にもそういうカテゴリだと思います。
これはさらに勝手な個人的解釈ですが、
東京03はコントというジャンルの中でも演劇的な分類というよりも、その源流を辿るとボードビルに該当される系譜のコント師だと認識しています。
ウッチャンナンチャンや志村けんではなく
音楽畑の領域で展開される軽喜劇。
演奏と演奏の合間に演じられる繋ぎの曖昧な寸劇。
なのでいわゆる豪華な舞台セットを組んで派手な扮装をして老若男女から笑いを取るという大衆的なコントとは違うところに遺伝子があるタイプ。
その評価軸で審査をすると王道コントの視座からはズレを感じる人が多いと思うので、飯塚さんをコントの父的な立ち位置に置くのは摩擦が起きやすいのかもしれません。
もちろん松本人志という絶対的な軸が無くなってしまったからこういった座組になっているのだとは思いますが
そういった事情を鑑みるに
飯塚悟志という芸人、そしてコントという芸能の歴史、それに加えてキングオブコントという大会が何年も掛けて構築してきたブランディング、そういったあらゆる概念の集積を維持するために審査員含めていろいろな個別の演者や組織や業界に立ち振る舞いが求められているんだろうなぁ……と、うすらぼんやりと感じてきます。
キングオブコントの父として審査を全うしようとする飯塚さんのその立ち振る舞いがすでにコントなのです。
バラエティ番組という儀式
立ち振る舞いそのものをコントと考えるのであれば、バラエティ番組という形態そのものがひとつの大きなコントです。
MCも雛壇も観客もスタッフも視聴者も
全て社会生活の外側で擬似的な非日常を楽しむ装置としてのバラエティ番組というエンタメがあるという事を忘れてはなりません。
中盤あたりで述べたしずる池田さんのコント外での場外乱闘っぷりは、コントをコントで包み込むミルフィーユ状のコントコントと呼べてしまう奇行です。
ただ、それは見る側と演じている本人との間に作られた共犯関係であるだけで、基本的にはメディアの前に登場している段階ですでに人は何者かを演じてしまっています。
純粋な素は、純粋な素について考えてしまった瞬間に消滅しちゃうのです。
バラエティ番組は報道やドラマと違って
今ある世界と地続きの虚構を作り上げる行為です。
それは見ている側である私達含めて、
「お笑いを見て笑おう」と思って見るからお笑いとして成立するわけで
そしてこの論考の着地は全ての社会活動はコントであるという当然の茶番劇に降り立つわけですが
コントという営みの本質はそれを演じる"行為"の方に宿るわけではなく、
この場合それを演技だとメタ的に自覚する"俯瞰"視点に宿るものだと考えられます。
キングオブコントは「M-1があるならコントの大会があってもいいでしょう」という発案から始まり
そしてK-1は「立ち技から派生する格闘技の異種格闘戦」というコンセプトです。
派生、パロディは俯瞰視点の獲得と遂行により形式だけが発展するいわば儀式的運動。その流動がすなわちコント。
なぜこれが演じられているのか誰も分からないまま続けられる模倣はもはや本物と見分けが尽きません。
本気とごっこの境目
いささか抽象度の高い内容になってしまったので、話をもう少し具体的なバラエティ論に寄せると
賞レースコンテンツは原始的な枠組みでは「なんちゃって成分」がもう少し配合されていたと記憶しているのですが、その"あえて"を真剣に追求していく事で感動や青春的な色味を帯びていき、そこに年月が加わる事で結果、お笑い番組でありながらそれに本気で挑む姿を本気で見るという原型を留めない形になってきました。
ただ正直これ自体がよくある賞レース産業批評、感動ポルノ批判的な態度なのだと思うのですが
ふと思うのは、
これの逆ってなんだろう?
と考えた時に思い浮かんできた
同じTBSのバラエティ「SASUKE」というコンテンツがあります。
SASUKEもある意味、賞レースというか
本気とごっこ遊びの境界が曖昧になった大きなコントという営みと呼べると思うのですが
ただSASUKEの場合は根本的にスポーツ性があって、それをあえてでひっくり返すというよりも、もっとシンプルに本気で挑戦し本気で応援するという関係構造が出来ています。
そして、だからこそ山田勝己さんのようなスターが生まれる環境でもあって、SASUKEは本気であるけど、その外側では笑いとして面白がられる消費のされ方もしているのです。これがM-1とかのエモさとちょうど逆。
SASUKEは本気が笑いになってるけど
M-1は笑いを本気でやってる
こういった本気は本気であるままに外側から面白がるという図式はSASUKEほどではないものの、かつての素人参加型テレビ番組にはたくさんあって
「TVチャンピオン」も「鳥人間コンテスト」も「ロボットコンテスト」も「仮装大賞」も「のど自慢」も全てがその図式の賞レースだったと思います。
バラエティ番組における賞レースはこのパターン追求の方の道ももっと開けてて良いのではないでしょうか。
芸人の席巻によるお笑いの賞レース飽和の別文脈の中和は、俯瞰を越えた本気を面白がらせるコントの向こう側なのかもしれません。
サブスクは宗教になりえるか?
しかし、
演技の境界を曖昧にしそれによって生まれたグルーヴ、熱気で集団化しその中の何かがカリスマ化した時に結界が張られてしまうと危険性も伴います。
キングオブコントの話からは大分とズレてはきますが、その結界を先んじて構造的に作り出そうとするビジネスモデルはどうやらインターネットと相性が良さそうです。
今あらゆるコンテンツがサブスク化しプラットフォームの中に吸い込まれてしまい、その枠組みの中で展開される情報共有の営みは、こちら側も課金というお布施行為をする事で初めて内側に触れる事が出来、そしてその経済活動がプラットフォーム側の政治性や権威性を強化させるという、いわば参加型即興コントのような観客と演者の垣根を曖昧にさせる磁場を発生させています。
推し活的な感覚は、対象と距離を保つ俯瞰意識よりも、対象と同化して一体となってしまうような濃ゆい主観意識によって自他境界のグラデーションを溶かしてゆく精神性を覚えます。
もちろん推し方的なものを否定しているわけではありませんが、あえて怖い言い方をすればそれは扇動や洗脳と肉薄してゆく感覚な気もします。
これはあくまで"コント"であると
その俯瞰的な意識を持ってどこまでいられるかが「秩序」に対する適切な接し方なのかもしれません。
まとめ
いろいろととりとめもなく考えをとっ散らかしながらここまで進んできてみましたが、
結局なにがコントでなにがコントじゃないのか分からなくなってきました。
ネタ、審査、番組、賞レース、メディアプラットフォーム、社会生活、俯瞰意識、それらの全てがコントだと言うことも出来るし、そうじゃないと言うことも出来るし、
本当にコントって何?
とトム・ブラウンのネタを見た後くらいその定義が根幹から揺るがされ分からなくなってしまいました。
もしかしたら、こういう風に
「これはコントなんじゃないか?」と
認識するところからコントは始まっているのかもしれませんね。
ロングコートダディ優勝おめでとうございます!
この面白さ、言語化できな〜い!
おまけ
(※コチラ、KOC2025について話してる音声です)
赤坂さん、MHKさんと
— 視力 (@shi_ryoku) 2025年10月12日